大胆に生きるとは

「大胆に生きる」と聞くと

どんなイメージが湧くだろうか。

リスクを恐れずに大きなことに挑戦をしたり

周りの反対を押し切ってやりたいことをやったり

そんなイメージが湧いたりするだろうか。

 

最近この「大胆に生きる」という意味合いが

私の中でひとつ見つかったような感覚がした。

 

それは、こうだ。

大胆に生きるというのは、色合いを明確にすることなのではないか?

という感覚がした。

 

もう少し詳しく書くとこうなる。

ひとつはこうだ。

自分の資質、性格の癖。望む世界観、人間関係。自分の生活環境。

自分にとってのそれらひとつひとつを明確にすることではないだろうか。

そしてもうひとつはこう。

それら明確にしたものを元にめりはりのついた生活をする事ではないだろうか。

 

これは私の中の私にとっての発見として聞いてもらえたら嬉しい。

例えば、動画を見ながら書き物をして飲み物をのむ。

これは一体何をメインに行なっている行動なのか、少し色合いが曖昧だ。

料理をしながらラジオを聴く。それはとても気分の良い行動だ。

けれど一歩引くと、ただ料理に集中するという観点において見ると

集中が分散されて「料理をしているのか、ラジオを聴いているのか」が

曖昧になっている感じがする。

 

ひどくなると、洋服を着替えるのにも何か動画を流さないと気が済まなくなったり

信号を待っている時間でさえも惜しむように携帯を見たり。

自分のしている行動がどんどん色々なもので重なって曖昧な色合いになっている

そんな感覚に襲われる時がある。

 

掃除に集中する、料理に集中する、作業に集中する。

これらは瞑想をしているのに近い気がしている。

ただひとつの行為に没頭するのはどこか仏教の修行的なものを感じる。

仏教では食べている時は一言も口を聞いてはいけない。

ただ味に集中する。

いろんな楽しみが多い現代では魅惑が多すぎて

色々な情報で自分の周りに渦を巻いている気がする時がある。

 

私は特に一度にいろんなことをしたい人間なので

ひとつのことに集中するのが難しい。

作曲で過集中している時でさえ何かが流れていたりする。

寝ている時に夢を見ていることさえ、睡眠に集中していないような気がしてくる。

ここまでくると神経質な域に入るのだけれど。

 

大胆に生きるというのは

今という時間をひとつの自分が選択したものに集中して行動をしきる

という事でもあるのではないか、と思うに至った。

リスクを恐れずとかそういうたいそれたこと以外でも

自分の決めたこと、やること、に集中して投げ打つ。

そしてその時間を明確にする。

 

今はご飯を食べきった、掃除をしきった、洗濯をしきった、

他の一切を排除して、それに集中してやりきった。

そういう行動をひとつひとつ積み重ねていったら

一体どんな毎日になるのだろうか。

このブログを書いている時でさえ動画を流しているので

私にはとても大きな壁に感じるのだけれど

そういう生活に対して憧れがある。

 

私が電話に出たくないのも

好きな人以外に会いたくないのも

それはそれで、自分の決めた行為に邪魔をいれないという

明確な行動ではある。

そういう事をし始めただけでも新しい一歩ではあるけれど

生活ははて、これでいいのだろうか、という疑問が

わかないでもない。

めりはりのある生活、行動、思考の切り替え。

それが今の私にとっては憧れに見えている。

 

そしてそういう生き方をしている人は

大胆に自分の時間を生きている人のように見えるのだ。

それは必要なもの以外の一切をその時に排除しているからだと思う。

その豪快な選択を自分ですること、その意思の元に自分を生かすこと

それが今の私には眩しく感じる。
 
 
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ポジティブをせっせこ渡す

youtubeを見たり公開したりしていると

毎回更新して楽しませてくれる人に対して

頑張ってー!という気持ちやありがとうー!

という気持ちがわいてくる。

 

テレビ局と違って大きな広告費などもない人にとっては

いつそのチャンネルが終わってもおかしくない。

いつも楽しませてもらっているチャンネル。

応援の声が大きな励みになったりする。

 

私も感謝の言葉を言われるととても嬉しくありがたい気持ちになる。

そう思ったので、シギとは別で個人のアカウントを作った。

そしていつも見ているyoutubeの番組に

どんどんいいねを押していくことにした。

陰ながらのささやかな行為だなぁと思うけれど

それでもささやかな感謝が届いてほしいなと思う。

まだコメントなど書いたりはしていないけれど

この先コメントも書いてみようかなぁなんて思ったりしている。

 

発信者側でしかない人間なんていないと思っていて

どんな人間も誰かしらの考えや言葉を受信している。

コメントを書くなど、今までしてなかった

受信者としての経験もやってみたら楽しそうだなぁと思った。

 

ついこの間、ツイッターで物書きをしている人が

名前のわからない人から批判を受けてとてもショックを受けて

落ち込んでいるのを見た。

言葉を発するというのは本当に簡単なことだけれど

その言葉でその人に一生消えない傷をつけてしまう可能性もある。

人は完璧じゃないから自分に不満がたまっていたりすると

誰かに意地悪をしたくなったり

マウントをとりたくなったりもするものだけど

したくなったとしても、なるべくその手前で

「その自分で本当にいいのか」と自分に問いかけて止められる自分でありたい。

 

評価を下すのは本当に簡単なことだ。

人間は比較する生き物だから評価をするのは自然な行為だ。

けれどそれを口に出すかどうかは、人によってわかれる行為だ。

見えない人の苦労や時間は

想像しようとしない人間にはわからないものだ。

いろんな人間がいるから、傷ついたり傷つけてしまうこともあるけれど

なるべく発信者として、また受信者として

何かを発信する人にはポジティブな言葉をかけ続けたいと思い

わざわざ「褒めるためだけの」アカウントを作った。

 

いろんな場面で与えるという部分に注目して行動したい。

どれだけ私は他者に与えられているだろうか。

大層なものではなくても

今の自分の身の丈にあったものでいい。

普段何気ない場面で人に言葉のプレゼントを渡すこともできる。

ありがとう。良かったよ。素晴らしいです。

人の挑戦や続ける行為にささやかな言葉と行為で花束を渡していきたい。