運命に抗う

生きるだけでこんなにも苦しまなければならない

ひとが

運命に抗うことは

神様が描いた地図に背くことだろうか

それ自体が描かれた地図なのだろうか

それとも自分が筆を握るということなのだろうか

生まれ変わるなら

次人間として生まれ変わるとしたら男性に生まれてみたい。

 

川口にお墓参りにいった帰りの車の中で

山本譲二さんを流す。

子供の頃にみちのくひとり旅を聴いた時に

激渋すぎる!かっこいい!と思い

最近また聴いていると

私の声では出せない低くて重い厚みのある声に

男性になって低い音を出してみたいなと思った。

男性特有の低い声を聴くとそう思う。

 

最近聴くと時代の移ろいもあるため

歌詞の内容は時代の差を感じるけれどそれもまた歴史の一部で。

共依存バリバリな内容だし

「例えどんなに流れていても〜」のところなんか

聴きながら「流れててもいいけどLINEはしてくれよな譲二」と

失礼ながら思うことをやめられないわたし。。

 

メロディと山本譲二さんの声は

時が経った今でもあせることなく響く。

 

その後は北島三郎さんを聴いて

さぶちゃんはまじ日本の宝だなぁ〜と感嘆。(ただのファン)

演歌のDNAは日本で音楽を作る人間のひとりとして

絶やさずにいたいなと感じる。

 

深夜に近い、年度末調整の工事渋滞に巻き込まれながら。

可能性を走る。

満月の日に知らない人がいる知らない場所へ行った。

それだけで良い刺激になった。

同じような生活を続けていると

体にうすい膜が張ってくるような感覚がする。

それを手で破って外の空気を吸いたくなる。

 

自分の世界に知らないをいれたくなるというのか

知らない世界に自分から入りたいというのか。

 

それは自分の中にある可能性が元気な証拠。

外へ出してくれ、もっといろんな事やらせてくれ、

あれやりたい、これやりたい、

駄々をこねて無邪気に走る私と

そいつを焦って追いかける私。

 

まだまだいけるぞ、まだまだいこう。

面白がって、生きよう。

去年の後半ころから

女性との縁が立て続けにあった。

 

SDGsがでてくる前から

音楽をやる身分として現場に行った時に

シンガー、ミュージシャンとしての女性はいても

現場で働く方に女性が少ないことは違和感を抱いていた。

紅一点とされたイベントに出たことも少なくない。

女性はどこにいるのだろう?

 

私が女だからというのもあるけれど

女として生きているときに感じる障害や面倒ごとなどの生きづらさに

それを抱え乗り越えて社会で働いてきた女性に会うと

それだけで優しく強い気持ちが芽生える。仲間意識のような。

まだ何も言葉を深く語りあわなくても

分かり合えるものが存在している感覚がする。

 

この先の私の活動に欠かせない大事な部分になるだろうと予感している。

幸せの使い回し

その輝きに心を踊らせ笑っていると

逆光で私が暗く見えなくなる

光を取り戻すように

意味を吸い込んで言葉を書き出す深夜

このあと沈黙の海に深く沈み込む

水槽の泡が流れる音だけが響く

常夜灯が満月のよう

目を閉じて

今日微笑みをくれたものたちを思い出す

幸せは作り出す 使い回しでかまわない

やるしかないのだ。生きている以上。

ひとつまえのブログで書いたけれど

私はずっと自分のエネルギーを抑えて過ごしている節がある。

 

子供の頃からずっとそういう抑圧感がある。

常に加減している。

だからずっとつまらないなあと思っていた。

 

人と会うことは大好きだけど

人とする話がつまらない。

(人そのものがつまらないとは思っていない。)

多かれ少なかれ社会性をもっていれば

加減して話すのが普通だと思うのだけど

それが退屈に感じる。

本質的な話やその人のコアな部分の話は楽しい。

 

本当を隠しているような感覚がするものに

つまらなさを感じる。

 

だから街中で怒鳴っている人や喧嘩している人をみると

面白いなあと感じる。

それは笑いの面白さというよりも

うごめきが表れている現場をみることの面白さ。

滑稽さを恥ずかしげもなく表に出すことの面白さ。

 

 

エネルギーが滞ると喧嘩したくなる。

それでも私の中にある常識が押さえ込むので

失礼なことをしてくる人=喧嘩を売ってると認定して

売ってるなら買ってやろうと理由がつくので怒鳴ったりしてきた。

私も私で滑稽なことはたまにしている。

そういうくだらなさを自分の中に感じることが嫌いじゃない。

私は正しさのために生きたいわけじゃない。

 

生きていることを生きている間は感じたい。

そのためには人間を人間たらしめているエネルギーが必要だ。

それは自分が放つものと、人から感じるものと

絡ませあうものが必要だ。

 

 

ぶっ放してえ!!!!!!!!!

みたいな気持ちがずっとある。

それをしょへに話したら松田優作の学園ドラマの予告を見せられて

「これじゃない!?」といわれてウケた。

 

だから大きな声を出して歌うことは

私の中でエネルギーが正常に合法に放たれる場所。

 

だけど20年以上歌をかいて歌っていると

ただでかい声を出すだけじゃ物足りなくなってくる

(今までもただでかい声出してただけじゃないけど。笑)

 

もっと自分の中にある欲求や美学と

社会的な人間的なものとをないまぜにさせた作品

それでいてそれがポップスを超えないもの(つまり民衆が聴けるもの)

聴けるものであるが作品に忠実になることを恐れないもの

つまり新しさが備わっているもの。

 

今までの自分のやり方をステップアップさせたい。

けれどそれは想像以上に理性的な部分が必要だ。

 

ぶっ放してえ喧嘩してえみたいな

自分の中にある社会不適合な生きづらさは

表現として昇華されるために

存在しているものなのかもしれない。

まだそれが私は甘いのだろうなと感じる。

表現に対して、心を開いていないのかもしれない。

 

 

あとは自分がやろうとしていることが

ぶっ放してえなどの本能以上に理性を必要とする作業だと

超えなければならない壁が存在する。

それはもうどうしようもない。

死なないなら生き続けるしかないように

表現するために向き合い行動し続けるしかない。

簡単に「ぶっぱなせた!」じゃ満足できないのに

ぶっ放したい自分との葛藤。

好きなことをすることは楽ではない。

本気で何かをやろうとすれば。

 

そこに落ち着くのだ。

つまり、やるしかないのだ。生きている以上は。

うごめくもの

今日は昼過ぎからデザインについての話し合い。

 

絵画や映画のポスターを見たりしたとき

どんなものなら立ち止まるのか

さらにそこから心が動くものはどんなものか

改めて自分の中にある「好き」を意識した。

 

漠然と「これが好き」という気持ちで留まっていたもの。

好きには必ず訳がある。

好きを注意深く観察して言語化することで

なぜ自分がそれに惹かれているのか

より自分を知ることができる。

 

私はやはりという感じで

視覚的なものに関しても

惹かれているものの9割は人間が存在しているものだった。

その中でも共通点としては

静的な悲しみというよりは

悲しみや怒りや色々な交々としたものが

エネルギーとしてうごめいているようなものに惹かれる。

 

それは私の心の中と共鳴するからだろう。

自分の中のエネルギーの強さを感じるからだろう。

それを抑え込む日々。

大きな声を出すことがエネルギーを解放する唯一の手段だった。

しかし今、それは私の武器でもあるのだけど

もっと表現を磨きたい。その武器を武器たらしめるために。

磨きたい。

自分の手で意識的に作っていきたい。

 

自分が表現するものと自分が惹かれるものとの間に繋がる線。

 

自分自身や

自分が見ているものに対する解像度をあげていくこと

これが私にとっては思った以上に大切だと感じている。

人生のどうしようもなさを見つめる

ドライブマイカーを滑り込みで見に行った。

日本の映画(韓国陣営もかなり関わっていたけれど)の本気を見た。

作品の濃度に対して忠実に真摯になったことの結果なのだろう。

個性とは出すものではなくて

そのものを理解し研ぎ澄ませて努力を怠らなければ

自ずと輝き出すものなのだろう。

この作品は

人生の中にあるどうしようもなさや

やるせなさを感じたことのある人間ならば

きっと背中に手を置いて無言で励ましてくれるような存在になるだろう。

感動させて泣かそうとしていないからこそ

映画を見た後に

自分の中から自然とこみあげるものがあった。

こみあげるか否かは

観客のそれぞれに委ねられるのだろう。

そう思うとなんと誠実なのだろう。

作り手が読み手をコントロールしようとしない。

そんな当たり前の礼儀でさえ

犯してしまうことが普通にある。

去年の終わりごろから色々ありすぎた

私という人生において

見えない手で抱擁されるような気持ちになった。

それは慰みというよりも

私には励ましに思えた。

自分を見捨てたく無いと君が思うとき

いつでも僕は君に賛同するよ

とある老夫婦の一幕。

お腹が空いていたので

手紙の物語を書くのとランチをしにサイゼへ。

 

途中から老夫婦が斜め左に来たのだけど

最初は2人で仲睦まじくメニューを選んでいて

良いなと思っていたんだけど。

 

作業しているとその男性の声で

「だから昭和天皇はだめなんだよ!!」といってるのが耳に入り

私は「令和のサイゼでダメ出しされる昭和天皇って・・・」と

まるちゃんぽく突っ込んでいたのだけど。

 

その後でその男性が一緒にいる女性に対しても

「ちゃんと店員の話を聞かなきゃだめだろ!」とか

「こうしなきゃだめだろ!」みたいにかなり上から目線で

指図するように話していて。

 

相手の女性は

「あら、そおだったの?」みたいに終始穏やかに対応していたんだけど

私は心の中で彼女に

「もしあなたがよかったら代わりにそいつの頭引っ叩きましょうか」

など思ったりした。

まあ、お二人がよければそれでよいのだけど。。

 

こういう全く関係ない他人同士の会話に心の中で仲間入りするのも

ファミレスや喫茶店などの醍醐味のひとつである。