再・毒にも薬にもならないような生き方をするな

最近のブログや作曲への姿勢の変化で大きかったのは

私に伝えてくれた先生の言葉

 

「毒にも薬にもならないような生き方をするな」

 

が、頭の中にどーんと出てきたからだ。

 

 

何万人に私の言葉が嫌われ仮に毒になったとしても

先生に背いて

自分が毒にも薬にもならないような生き方を自分に許したくない。

そう思った。

 

 

あなたの影響をうけた人や言葉。尊敬している人。

浮かぶかぎり浮かばせてみて。

どんな共通項があるだろう。

それは自分に近いか、遠いか、反対か。

 

 

私は、「自分に存在している要素だけど

勇気を出さなきゃ届かないもの」って感じ。

 

だらけていては、なまけていては、

後ろを向いていては、決して届かない感じ。

 

だけど、ちびまる子ちゃんも好きなので

自分のマイペースななまけを否定するつもりはない。

それはそれもあるわよね!って感じ。人間多面的ですから。

 

毒か薬か。

毒からでしか気づかないものもある。

だけど毒にもなりえそうなものは、

優しさや、それぞれの事情などに

考えれば考えるほど、寄り添えば寄り添うほど

その力は失われていく。

 

 

「傷つきました」っていう言葉をネットで見かける。

誰がどこで傷つくかはわからない事の方が多い。

全員の人生や弱さやトラウマを把握することはできないから。

 

殺人犯の被害者の家族を思えば

殺人事件のドラマはお蔵入りすべきだろうか。

失恋して傷ついてる人を思えば

恋愛の映画なんて作らないべきだろうか。

そんなことに頷く人なんていないと思うけど

それと似たようなことを求めてくる人は少なくない。

そしてそれが社会的大義である場合もあるから難しい。

単純に否定だけできるほど簡単な問題ではない。

 

自分でコントロールできる部分と、できない部分がある。

その狭間で私の言葉は

言葉の刀は行き場を迷っている部分があった。

人の心を想像できる優しさがあるといえばそれまでだけど、

それは邪念に囚われていたり、自分の甘さだともいえた。

 

 

私が尊敬する人たちに共通するのは、

目的への意志力の強靭さ。

生きるということの美学。

そして希みを捨てていないからこそ人に厳しいところ。

派閥に頼らず敵も味方も多い人。

 

私はこの尊敬する人たちの厳しさが大好きだ。

その言葉に触れると

冬の厳しい寒さだが澄んだ朝のような気分になる。

 

自分の耳に痛い時もたくさんある。(まるちゃんモードの時はまじこれ)

やる気になれるばかりじゃないし、

しんどい時も休みたい時もあるから。

 

だけど、いつもやる気に満ちてればいいってもんじゃないってのも知った。

当然のことなんだけどね。

自分がその時々で選択することなんだって。

影響さえもその時々で選択し、正しく使うものなんだって。

自分なりに陰陽をコントロールする必要があるんだと気づいてから

必要な時の要素として尊敬する人たちの存在がある。

 

健康的な食事が知りたければそこを探るように

良いパジャマが欲しければその店を探すように

安らぎのためにヨガがしたかったら調べるように

私にとっての私の尊敬する人たちの存在は

自分の背中を押す、自分に誇れる自分になりたいとき・・

つまりは勇気をだしたい時に使っている。

本来の自分を取り戻せるような。

 

 

私自身もそういう活動をしていこうと思った。

人にそういう使われ方をしたいと思った。

なぜなら、尊敬した人の教えは私の体の一部になっているから。

血や骨になっている。

 

目を閉じて

「私はあなたを尊敬しています」

とその人に心の中で伝えた時に

その人たちに対して恥ずかしくない自分でありたい!って思った。

 

その敬愛する気持ちを気持ちだけで終わらせず

体現して具現化していかないと

それはただ表面的なお守りとして使ってる

都合の良い存在であって

それは失礼なことなのかもしれないと。

 

尊敬する人たち全員が私のことを知っていて

私にかけてもらえそうな言葉は全員一致で

「お前はお前をやりきれ!」だ。