違和感の人に感謝。

憧れている人が二人いる。

一人は憧れというより尊敬が近いかもしれない、大学時代の恩師。

もう一人は会ったことのない、見ているだけの人。

 

私はその後者の人からいろんなものを教わってきた。

いつも後ろ姿を見つめるような気持ちで。

その人は誰に対してもポジティブで人の批判を一切しない。

私のような毒っ気を面白がる人間からみると、初めの頃は物足りなく感じていた。

でもだんだん自分の中で対話を重ねるようになってわかるようになった。

自分に集中し、自分に与えられたことを成し遂げようとする日々には

他人に対しての粗を探す時間などないのだということ。

自分に真摯に打ち込めば打ち込むほどに

人に対する眼差しは穏やかな愛のような色合いになっていくこと。

 

ただ相手のありのままを受容する。

それは自分が自分のありのままを受容していないと難しい。

 

そしてその人はもう一段階、上に昇った。

自分の価値観も越えるという段階に。

私はそれを知った時に、思わず感嘆とした。

どんどん先へ進むんだな、まだまだ後ろ姿を見つめるのだなと嬉しく感じた。

 

自分の価値観や経験や美学を形にしようとする段階を越える。

ルールというものは与えられるものだ。

与えてくれる人や教科書がある。

しかしいつか、与えられたルールを壊す時がくる。それは自分にしかできない。

 

ルールという型を知り

その中で経験や美学を構築し

その型を壊して自分の価値観が築かれる

その自分の価値観をさらに壊して

自分が宇宙のような感覚になるということは(私の語彙力が胡散臭い宗教のようですまん)

私にはまだ到達していない段階だ。

「この人は本当にすごい人だ。」

憧れの人を憧れとした自分の感覚が誇らしく思えた瞬間だった。

 

ひとりの時間が長いからこそ

身近な人、久しぶりに連絡を取り合った人、遠く見つめる人。

いろんな人をなんの脚色もせずに見つめ直すことができた。

 

そのなかでも

「この人のことを好きな自分を誇れる」という気持ちと

「この人といる時の自分が好き」という気持ちは

どれほどか尊いものだという事を感じた。

私はそのことを感じる時、

心が穏やかさという海にどんどん沈められていく感覚がする。

幸福というのをこんなに素直に受け入れたことがあっただろうか。

 

自分の中にある穏やかさ、人を受容する気持ち

そういう自分を出せる人もいれば

なんだかこの人といると張り合う気持ちが出るな

なんだか違和感に思うなと感じる人もいた。

 

怒ってる人といるとだんだん気持ちが刺々しくなるように

受容する人といると受容する気持ちが出てくるし

張り合う人といると張り合い返す気持ちが出てくるのは自然だ。

人は人に影響されやすい。

 

大きく変わったのは、

今までだったら後者の「違和感に思う人」を良く思わなかったけれど

今は「私がどんな人といたいかを明確にさせてもらえたな」と

思う気持ちがでた。

どんな人間がどんなことを思っていても、私の手中にある事ではないから

違和感に何かを物申すよりも

「違和感の人よ、教えてくれてありがとう」と心のなかで優しく呟いて

そしてさっと手を離す。

 

心は自分の意識よりももっと大きく変化しているのかもしれない。

改めて自分の中の正道が見えたような感覚がした。