演技をしているような人に会ったことがある。
自己不信と劣等感から等身大の自分を出せない。
だからどこか誇張しているような人物像となる。
「ダメな自分」を誤魔化すために
もっともらしい言葉を口にしたりする。
けれどそれはその人の人生から生まれたものではない。
どこかの偉人の引用文、のような印象になる。
「ダメな自分」を刺激されるため
自分に持ってない人や自分にないものを攻撃する。
その攻撃も自分が悪いように見られないように
これもまたもっともらしい言葉で、比較して攻撃対象を乏したりする。
「Bではなく、 Aが正しい」など、遠回しな攻撃。
しかし、「ダメな自分」というのは、本当にそうだろうか。
本当に、ダメなのだろうか。
そしてそこまでして、そいつは恐るべき存在なのだろうか。
その自分は、自分によって常に隠されて忌み嫌われ続けている。
等身大というのは、ほとんどがグレーゾーンではないだろうか。
清浄と汚れの間。理性と本能の間。
それを認めることが難しい環境だったのかもしれない。
私にそれをわかることはできない。色々あるんだろう、くらいにしか。
その人と会話を重ねていると、玉ねぎと話しているような感覚になる。
どんどん剥けていくと、中身は何もない。
肝心要の部分がないという事まで言語化はしないだろうけれど
周りの人もどこかその事に違和感を覚える。
自分を出さない人には、相手もまた、自分を出そうとしないものだ。
だから腹をわった付き合いが生まれない。
「等身大の自分」というものを追いやり続けた結果なのだろう。
なんとも言えない感触に、前々から付き合いがあった人なのだけれど
私はその場を立ち去った。
演技をしているその人に話しかけ
その人の世界観の中で答えが返ってきて
等身大のその人と、私はそこに存在していないのだ。
なんとも摩訶不思議な感覚だった。
しかしこれは、その人を馬鹿にしているのではない。
「これがその人の課題なのだろうな」と私は感じていた。
私にもそれとは別で、私の課題がある。
人はそれぞれの課題を持って生まれてきたと思っている。
その課題を克服することは、真の自分で生きていくための通過点。
その課題は、自分が解決して初めて意味を成す。
生きていく間で身につけた自分の首をも絞めかねない癖というのは
なかなか変わらないものなのだと
なんとも言えない気持ちになった。
これが人間というものなのだろうか。
たまに、人の課題をその人自身に突きつけたいという
我儘で冷淡な欲求が私にはあった。
私がそう思うのは自由だ。
けれどそこで言うかは、突きつけるかは、自分の心が決めることだ。
思ったことを嘘にする必要はない。
けれどなんでも言うものでもない。
「そこに愛はあるのか」と昔のドラマであった台詞だけれど
自分が何かを示したい時に、そこに愛はあるのか?と問いかける。
愛ではないものを、人に投げつけるのはやめにしたいと私は自分に思っている。
そこには不毛な結果しかないから。
人の中にあり自分の中にもある業、汚さ、弱さ、鬼のようなもの。
こういう部分は作品の中で昇華させていこう。
私の手には、私の喉には、私の心には、それがあるのだから。
人に対しては、愛の眼差しを持って生きていきたい。