生きている。

昨日はイクスピアリに。

一瞬で時間がすぎた!

20時はやはり短く

もう閉店したランドの目の前に行って

THEディズニーというような音楽が流れながら

もう人通りもまばらなバス停を眺めながら

ベンチに座ってあれこれと

とりとめのない話をしたのがとても良い時間だったな。

 

帰宅してからシ組のイベントでいつもPAをしてくださってた

とっきーさんの突然の訃報にショックを受けた。

すごくすごく悲しかったけど

それでももうとっきーさんが亡くなっているということは

苦しみも悲しみもない安らかな世界にいったのだと思いたい。

残されて生きていく人たちの胸の寂しさに心を寄り添いたい。

それは私自身の心にも。

会うたびに感じたとっきーさんのさりげない深い心配りに

優しさが染みているようで大好きだった。

また会えるときまで、安らかに。

生きている間に会いたい人に会って

幸せな時間をなるべく多く共有したい。

私が元気でも、相手が元気かは限らないし。

私が元気でも、明日はどうかわからない。

生きてる間の縁を大事に大事にしたいなと思った。

それまでの時間が楽しかったからこそ

なおさら心に染みてそう思った。

とっきーさん大切なことを改めて教えてくれてありがとう。

 

そして今日は行く予定がなかったのだけど

天気がとてもよかったので急遽袖ヶ浦の海に。

前々から海の素材を撮る時の候補にいれてたのだけど

波音がほとんどなかったのでこれはボツだな。

録音機材持ってかなくてよかった。

でも素敵な景色だったなあ。遠くに東京の街並みが霞んで見えて。

東京湾て案外小さいんだなぁ。

帰りに袖ヶ浦から東京方面まで走る道は

工場がとてもたくさんあって

炎がごおごおあがっていたり

まるくて大きいタンクがあったり

荷物を運ぶ専用の鉄道があったり

なかなか見れない景色が見れて食い入るように見てしまう。

その広い工場のなかでどれだけの人が働いて生活をしているのかとか

そんなに広い場所で一体どんなことをしているのかとか

人がそこで活動をして日本中または世界中にまわると同時に

私もきっとそこのお世話になっているのかもと思うと同時に

何かの犠牲も確実に存在しているんだろうかとか

そういう事を私は何も知らずに利用してたりするんだろうなぁとか

救われるものと救われないものについて考えたりしていた。

救われるものはいつもどこかで何かを犠牲にして

その犠牲にした分の罪を背負って生きていくのだろうなとか。

そこに鈍感にはなりたくないなぁなどと感じながら

綺麗な工場の夜景を眺めてた。

あぁもう5月が終わる。今年も半分に差し掛かる。

気分転換の2日間を過ごせて

明日からはまた制作に励もう。

保護中: 5月振り返りと6月のイメージを一緒に作りましょう!

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あの女は生命より大事ですので、死なうにも死に切れん。

読了。読んでいたのはこれ。

泉鏡花の日本橋。

四、五日で読み終わったかな?

なかなか難しくて最初は難儀した。

どう難しいのか一ページお見せすると・・

こんな感じ。

泉鏡花の小説の不思議なところは

最初気合をいれないと読みづらくて全然入ってこないのだけど

そこを頑張って読んでいくと

あれよあれよと泉鏡花の世界に入っていけるところ。

しかし日本橋はその中でも特に読みづらかった・・・。

しかしやはり読み進めると安定の泉鏡花ワールドだった。

 

人の強さと美しさ。

歩きながらこの小説について考えていたら

そういえば泉鏡花の話は

必ず想いを貫くと共に

その想いの責任をとる人の姿があるなと思った。

 

責任をとる姿は悲劇に映るので

人によってはバッドエンドに感じるかもしれないが

想いを貫くという点において私には幸せな結末に感じている。

その責任も人からとらされるとかではなく

自分で決断した末のことなので

凛とした汚れのないものを感じる。

 

日本に帰化したラフカディオハーンなんかは

こういう日本人の姿を美しいと感じたのだろうかと想像する。

ちょうどラフカディオハーンの怪談を読んでいるので。

そういう日本人が日本にはどれほどいるのか

とても怪しいところだけれど(それが幸福とも限らないため)

そういうのを美しいとする日本人の感性は

私の中にも息づいている。

しかし現実でそれにのめり込みすぎることには気をつけたいところだがね。

 

昨夜から今日はそんなこんなの気持ちに浸っていて

その気持ちのままで一曲かいたら良い感じの曲ができた。

そして私はこういう純文学に久しぶりに触れることで

この世界は私にとってとても大事なものだったと

大切な何かに気づいた。

その何かがうまく言語化できないのだけど。

大学の時にむさぼるように三島由紀夫・川端康成・泉鏡花を読んでいたので

あの時の自分は私を形作る大事なものだったのだなと

今の自分の血肉になっているのだなと

久しぶりに泉鏡花に触れて気づくことができた。

明日の私は知らない私。

最近なんの変化が私に起きているのか

白い服に惹かれて真っ白に。

あなたあんなに長年黒い服ばっかりきていたのに。。

黒が嫌いになったわけじゃないんです。

黒は殿堂入りしたんです。

 

数年前Y’sに行った時に

試しに白も試着してみよ〜という感じで白を着たら

「なにこれ違和感すごい全然似合わない!」と思ってから

白を敬遠してたのでこの真逆の振り切り。

私はそういう女だよ。

なぜか今はしっくりきてしょうがねえ!

髪色が変わったのもあるのかもしれない。

いやはや来年にはどんな女になってるか自分でも見当がつかないやい。

価値を考える。

たまに聞いているちきりんさんのvoicy

今回は映画館の価値の変遷というものだった。

映画に求められる価値が変わっているというもの。

昔は映画でしか見れない役者や大画面を体感できること

その後で銀幕スターがテレビに出演するようになってから

一家に一台テレビがあるようになってから

映画に求められる価値は少しずつ時代と共に変わり

映画は子供の夏休みやデートなどのイベントとして使われるようになった。

イベントとしての価値は下がってはいないが

今プライムビデオやネットフリックスがあることで

映画は家でもみられるものになった。

そこで今の映画に求められている価値とはなんなのか・・

ちきりんさんの答えはvoicyにて・・(回し者のよう)

 

ちきりんさんの答えをみて「たしかにねえええ」と思った。

その答えと共感できるところがあり

最近、私は久しぶりに泉鏡花の小説を寝る前に小一時間ほど読んでいて

買ったはいいが読み進められてなかったものを

再挑戦とばかりに再び手にとったのだ。

これがやはりすごく難しい。

三島由紀夫の豊饒の海の天人五衰も同じような感覚になった。

自分に苦行を課しているような感じになるんだけど

寝る前にスマホから離れてこの苦行の時間を続けていると

難しいながらだんだん物語のなかに入っていき

そこには日常から離れた静けさが感じられてそれが心地良い。

 

映画はこの間お恥ずかしながら遅ればせながら

マッドマックス怒りのデスロードをみた時に

「これをなんで映画館で見なかったんだああああああ!!!!!」と

猛烈に後悔した。

大画面で堪能したい映像というのは映画館ならではの価値がある。

ベイビードライバーもそのうちのひとつ。ゴジラもね!

 

あとはデートとしての映画も変わらずの価値。

ひとりや友達と行く時は作品が面白そうだから行こうとなるけど

好きな人や気になる人と行くときは

作品よりも一緒にその空間を共有できることの中に価値を見つける。

(しかし記憶力がないのでその後誰と見に行ったか覚えてなくて

気まずい思いをしたこともちらほら)

 

価値を見つけること。

自分という存在の価値。

これは別に外側からの称賛やビジネスのためでなくても

個として表現することが良くも悪くも押し出されるこの先の時代にあって

自分という存在の価値を俯瞰して認識することは

それを使って自分の得意で仕事をしていくことへのヒントになるかもしれない。

 

わたしに価値なんてない!と思うのならば

自分の嫌なところや短所を次々に書き出していけば

それをひっくり返すと長所になる。

「飽き性」ならば「柔軟性がある」とか

「頑固」ならば「忍耐力がある」とか

なんでも反対にしてみると面白いものが見つかるかもしれない。

飲んでもいいですか

スパイスを使ってチャイを作ってみたよ!

カルダモン、クローブ、シナモンを使って。

一人分なのでちょっとでやってみた。

カルダモンの中身をとってごりごりやって

お水にいれて煮たよ。

カルダモンてやつぁスパイスの女王と言われてるらしく

すっきりした香りなのだけど

煮だすとスパイスの香りがふぁーっとしてきて

それだけで心がすっきりした。

 

茶葉をいれたあと牛乳と砂糖もいれて

沸騰間近でおろして完成だよ。

今回は生姜もいれたんだけど

それ以外にもペッパーなんかもいれるといいらしい。

砂糖が調整できるのもいいな、蜂蜜を代わりにいれてもいいようだ。

いろんな楽しみ方ができるのね。

 

夜ご飯後にチャイでまったり癒されました!

好きになってもいいですか

顔を見られれば

すでにそこから別れの時間が始まるから

会う前の時間が一番幸せなのだろうか

それは優しいのか

熱いのか

淡いのか

手探りでいる時間が

人が人を知る前の楽しみなのだろうか

そのプレゼントの箱には

何が入っているかわからない

その高鳴りが一番のプレゼントなのだろうか

それは言語化するほどでもなく

なんとなしに通り過ぎていく気持ち

それを私は残していたい

わからないことがこんなにも

私の胸を躍らせるから

これもスパイスの女

スパイスあれよあれよという間に12種類に増えた!

そしてスパイス繋がりで新たな興味を見つけたので

それの勉強を始めようと思っている。

昨日も適当に胸肉にスパイスを振りかけて食べたけど

塩胡椒よりも味が面白いので

さっぱりした胸肉やササミも楽しく食べられる。

梅雨の時期にスパイスの効いた料理をとると

元気が出るみたいなのでおすすめします!

でも市販のカレーは脂こいのとか結構入ってるみたいなので

市販のカレー以外のがいいらしいとのこと!

どうしようもない人。

そこまで親しくはないが知っている人がいるのだけれど(遠くの親戚のような)

その人のことを、私は本当にどうしようもない人だなと感じている。

 

人間は大抵どうしようもないものだと思っているけれど

わざわざ私が言葉で「どうしようもない人間だ」と形づけるということは

私の中では相当どうしようもない人間ということ。

 

今までそういう人の近くにいると

アンテナが「そばにいてはいけない!」と教えてくれるので

数万キロくらい精神的物理的に距離を離すのだけど

その人は私がその人から離れていたとしても

影響がないとは言い切れない距離関係にあるので

どうしても間接的に知らざるを得ない。

まぁ人間、縁を切ると言っても生きてる限りは同じ地上のどこかにいるので

私は間接的に影響があることに関してはヒステリックにはならない。

 

私がわざわざ口にするほどどうしようもない人間というのは

どういうものなのかを説明すると。

・すべて自分の利益のために動く。

・邪魔だと感じる人間は深くその人のことを知らなくても思い込みで恨み、憎む。

・人を物理的に傷つける行為をする。

・人を傷つけて自分が被害者だと思い込む。

・他者の気持ちを配慮することが全くといっていいほどできない。

簡単に説明すると上記のような人間。

 

私がその人を見ていて思うことは

人間は学ぶ環境に恵まれないとこうも愚かな生き物になるのか、ということ。

犯罪を犯す人の中にも同じようなことが多いのではと思う。

 

倫理や道徳を教わる機会が極端に少なかった。

愚かな行為を、それは愚かだと教えてくれる人がいない。

愛情の足りない環境で常に精神的な飢えや不満を抱えている。

そういう環境で育った人が犯罪や人とのトラブルを起こす。

周りは避ける。危ないやつとわざわざ付き合う義理などないし

そもそも身の危険を感じて恐ろしくなるため。

そうするとどんどん孤独と被害者的な思い込みは加速していく。

もしかしたら誰かに教えてもらった場面もあったかもしれない。

けれどそれを「自分は否定されている」と受け取ったり

くだらないとゴミ箱に捨ててきたのかもしれない。

 

すべて想像なので本当のことはわからない。

けれど想像することをやめてはいけないと自分に思う。

「なぜこの人はこんなにもどうしようもない人間になったのか」

そうなる理由が必ずある、と私は思っている。

親が酷かったのかもしれない、親も劣悪な環境で生きてきたのかもしれない。

教育や環境に関係なく本当にどうしようもない血なのかもしれない。

それはわからない。

けれどわからないものを想像していると

罪を憎んで人を憎まずということが体現できそうな気がしてくる。

 

私がそういう人がいるということを知り

人としてどうしようもない行いをしているのを聞いて

宗教で倫理的な教えをする物語が多い理由がわかった。

昔は今よりも倫理観が不安定で

人を人とも思わないような人体実験や拷問が当たり前にあった。

(今もないわけではないが)

教育も行き届かない場所において人が人と共存していけるためには

倫理観や道徳を育まなければいけない。

そういうわけで宗教の物語で人に倫理観を広めていたのかなーなどと想像した。

(その宗教によってまた人が人を憎んだりもしてる事実もあるのだけど)

 

勝つか負けるかで世界を見ていると

そういう世界を生きることになる。

人間は自分が考えている人生を辿ることになる。

恵まれない環境で愛を知らずに育ったことは被害なのだが

いつまでもその被害の中を生きていては

自分を幸せにできない。

 

他者から奪う生き方をするのではなくて

他者を睨みながら自分を守るのではなくて

自分の脳内で作り上げた世界に気づくこと。

(他人は敵だとか、みんな自分を憎んでいる、とか。

そういう世界を作り上げて思い込んでいるということ)

そのことに気づくのは本当に困難なことだ。

物語を生きているとこういう弊害が出てくる。

 

自分を哀れな存在にしてはいけない。

それは自分の力をみくびることになる。

誰かを傷つける力として使わずに

本当の意味で自分を幸せにするために使わなければ。

本当じゃない意味の幸せというのは

誰かから奪った利益を自分のものにして幸せになるという行為だ。

それは自分を幸せにしているようでいて失っている行為だ。

何を失っているかというと人からの信頼だ。

金という目に見えるものよりも

目に見えないものを失うほうを恐れる方がいい。

しかしそんなことを私が思えるのは

私を育ててくれた両親や先生や友人や文化に恵まれていたからなのだろう。

それに恵まれないものはどう気づけばいい。

どうしたらそこに気付いて報われるのだ。

人を傷つけずに自分を幸せにできるのだ。

わからない。わからないから想像するんだ。

わからないから考えるんだ。

あなたの目から見えるもの

あなたはどこで生まれて

どう生きてきたの

ご両親はどんな人

子供の頃は楽しかった?

好きな映画はなに

好きな人はいるの

何が辛かったの

あなたのこと教えて

あなたの話が聞きたい