アクションはライブ。

8月も終わりの日。

起きてカーテンのレース部分の洗濯&網戸の掃除をした。

白いレースが風に揺れて乾かされていくのを見ているのが気持ち良かった。

次に天気の良い日にレースじゃないカーテンの方を洗濯。

1年に2回くらいは洗濯した方が良いのだろうか。

 

出かけるまでに時間があったので久しぶりに絵を描いた。

ヒートガンでマーブル作ろうとしたら謎の膜ができて。

イメージしていたのと全然違う見た目になり。

まじかーと思いながらスプーンで膜をとっていると

膜のしたから細かいマーブルが出現して

「これはっ!!!!!!」と宝物を発見した気持ちになり

膜をどけていったりむしろ膜を少し残したりすると

こんなに細かいマーブルになった。想像したより細かい。

この立体で白と青たちが混ざり合う感じ。

ぜひこの画像をクリックして拡大して

色の混ざり合いを感じてほしいところ。

 

海には何種類かの色が混ざっていて

それは人間でいうところの感情のようにみえる。

人間にも色んな側面がある。

青というのは私の中で自分が洗われる

浄化の意味合いが強くて海もそれと地続き。

清濁併せ吞む感。全てが洗われて現れるさま。

 

毎回そうではあるけど

今回特にこの「おもてたんと違う!→いじくる→おもてたんを超えた!」

っていう流れが非常に思うところがありましたねえ。

まずイメージした通りにはならないっていうのは曲にも言えることで

そこで違うからといってやめたらそこで終わりというか。

そこからさらにいじった時に、イメージした通りではないけれど

そこを超えたものが出来上がった。というのは

色んなものづくりに通じて言えることだなと感じた。

それこそが「ライブ」という感じがするな。

ライブってのは言葉の通りステージ上でやるだけではなくて

日常での出来事から作曲から何から何まで

アクションを起こすということ自体がもうすでにライブなのかもな

なんてことを思ったりした。

 

そしてそれを音楽以外の事からものづくりで感じるというのが

私にとってこの時期だからこそ大切な学びのような気がしている。

自分を動かしやすくする。

雑誌編集者の女性が、自分が飽き性な事に悩んでいた。

けれどある日「飽き性だから編集の仕事が向いているんだよ」と言われてから

「飽き性を良い風に生かせばいいんだ、次々にワクワクするものを紹介できるのが

私の良い部分なんだ」と思い直すことが出来て

飽き性をネガティブに捉えなくなった。

という話を聞いた。

 

これは一つの出来事や物事の「解釈を変えた」と私は捉えている。

人は何事も自分の解釈で受け取る。

「私はこういう解釈の仕方をしたんだな」と思うようにすると

「これが私なんだな」と思うよりも方向性を身軽に変えやすい。

 

私も飽き性だったので彼女の言っていることがよくわかった。

私の場合も、「飽き性ではなくて次々に新しいことに挑戦しているだけ。

それでこそあなたが生きる」ということを聞いてから

解釈を変えることができた。

 

そして「自分のこれが嫌だけど、でもそれは良い面もあるから

このままで生かしていこう」と思うと同時に

最近では「自分はこういう面があるけど、それは変えていきたい」と

思うこともありだなと積極的に思えてきた。

 

今まではなんだか「自分に無理をするのはよしたほうがいい」とか

「無理しなきゃできないことはやる必要がない」という

自然体な言葉に惹かれていた。

それもそれで一理あるのだけど

「自分では苦手な一面だけど、それでもやってみたい自分がいる」なら

それはとりあえずやってみた方がいい。

なんでも自分らしさに合わせて行動していると行動の幅が狭まる。

もしかしたら「無理しなきゃ」という言葉が強すぎて

その裏にある「でも本当はやってみたい」「本当は興味がある」という所を

見過ごしてしまっている可能性がある。

 

具体的な話をすると

私は音楽を作るのは自分だけの感覚でいきたい自分と

他者の思想や作り方を知り時世を捉えた上でやっていったほうがいいなと思う自分の

二つの相反する自分が存在していた。

 

あえて後者を「やりたい」ではなく「やっていったほうがいい」と書いた。

これは、自分だけの感覚だと

すぐにネタ切れして同じようなものしかできないという理由から

自分の感覚以外も「やっていったほうがいい」と思っていたから。

 

言ってしまえば「自分だけの感覚」なんてものはそもそもない。

必ずしも人は何かに、誰かに影響を受けているから。

「自分の慣れた感覚」といったほうがいいかもしれない。

 

そして「やっていったほうがいい」というと、私は決まって

イコール面倒くさいにつながる。義務感がでるからだ。

 

しかし面倒臭いのに、なぜかいつまでも私にまとわりついてきた。

「そうしなきゃいけないと思っているからまとわりつくんじゃない」

そう思うこともあったけれど

しかしこれはよくよく自分が求めているものらしい。そんな気配がする。

 

 

「怠惰の先を見てみたい」というのがこの頃の私の願望。

今までやり慣れた生活、やり慣れた作り方、やり慣れた性格に飽きて、

めんどくさいけどめんどくさいと思っているのにも飽きたから

めんどくさいの先に行きたい、と願うようになってきた。

 

だから私は

「やらなきゃ」じゃなくて「やっぱりやりたい!」に解釈を変えた。

 

というのも、今まで通りに飽きたともう一つ理由がある。

私が同じように引っかかってきた言葉がある。

それは「本物」という言葉。

本物というのは人の数だけ解釈の仕方がある。

私は前に「本物を求めて変化に飛び込んでいく人だ」と言われた。

しかしその時に「本物」とは一体なんなのか私の中には浮かばなかった。

それっぽい言葉は並べられても自分の言葉ではなかった。

 

そしてここ数日感じている。

私が思う「本物」という定義は

この「やっぱりやりたい!」と思っているものの中に存在しているような

予感がしている。だからやりたいに解釈を変えることができたのだ。

 

私は自己探求が人生の面白さのひとつだと思っている。

現時点での私が思う本物というのは、

「自分以外のもの(時世、他者の作品や思想、物事の成り立ちや作品以外の物事も)を

自己の一部に取り込み

それを自分の思想やあり方と混ぜ合わせ

自分の作品に昇華させること。

そしてその探求と強い意思を継続し続けること。」

だと思った。

これは今の私にはかなりしっくりいった。

 

そしてこの解釈がしっくり出たことによって

その本物へ続く橋がくっきり見えたような気がしている。

この橋を渡ったからといって自分が本物を手にするかどうかはわからないけれど

(おそらく別の課題が出そうな気がしている、それはなくならない。)

少なくとも今の感覚とは違う境地に達するのではないか、と感じる。

 

「めんどくさー」と私は思いがちだ、と自分に思っていたけれど

別の側面で、知識を吸収して発信することは私の好きなことのひとつだ。

今まで自分が「私はそれをめんどくさい」と思い込ませていたものの中に

「シラフな目でみたらむしろ得意なこと」が隠れていたりする。

それこそ「解釈を変える」ということに繋がる。

 

他者の言葉にも要注意なのだ。

他者が「あなたはこういう人だよ」という決めつけは

他者が思っている「あなた」でしかない。

時に他者の言葉が良い風に解釈を変えるきっかけにもなるが

時にそれは動きづらさに繋がる呪縛になる場合もある。

あまり他人の言葉は鵜呑みしすぎない方が良い。

「他人の感想だな」くらいがちょうどいいし

その中で引っかかる事があったとしたら

自己探求する良いヒントとして使うのがいい。

 

自分の行きたい方角へ自分を舵取りするためには

うまく自分自身を説得力のある言葉で誘導する必要がある。

「確かにそうだな」と腰の重い自分に思わせるのである。

解釈の仕方次第で、自分の心を使いやすくする事ができる。

使いやすくなった心で、行きたい方角へ歩みを進めるんだ。

 

 

ひとつひとつ、明確に。

水に触れた時に、

あ、これは水だ、と認識すること。

風に吹かれた時に、

あ、これは風だ、と認識すること。

 

日に当たり熱くなった肌と水の冷たさの境界線を味わう。

風に吹かれて前髪が揺れてそれが皮膚にあたってくすぐったくなること。

 

水に触れた時に、

「昨日はあんな嫌なことがあったな」と認識していたら

風に触れた時に、

スマホの文字を目にしていたら

 

何を今明確に意識できているのだろう。

行うことの全てが曖昧にぼやけていく。

 

日常の全てが修行だと仏教の教えにあったが

それはひとつひとつを確かに認識することにあるのかもしれない。

集中するということ 研ぎ澄ませるということ

そこから生まれてくる己の感覚に耳を澄ませる。

思い出と共に

昨日は思い出のあの場所へ(どの場所)。

何回来ても美味しいなぁ。

特にシソご飯。ヒレカツの柔らかさ。赤味噌汁も最高。

引っ越したことで少し遠くなってしまったけれど

でも何年たっても何処に住んでもこの時期には

このお店にくるんだろうな。

写真見ているともう食べたくなってくる!!!!

 

昨日はシソご飯をおかわりしちゃったし

食べ過ぎたため炭水化物を減らし目でいきます。

さあああ!

私の私による私のための新しい生活様式を始めよう。

保護中: 8月振り返りと9月のイメージを一緒に作りましょう!*シ組ワーク

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本気でやれ

能書きを垂れるだけならいつでも出来て

考えるだけならばいつでも出来る

そんなのは好きでしょっちゅうしているから

難しいのはいつも実践すること

実践し始めるとすぐに足が止まる

思っていた事と違う 書いていた事と違う

やってみないと分からないというのは本当だ

出来ない自分と対面したくないから

昔からなるべくその時間を短縮させてきた

でもそれでは

知っている自分にしか出会えないと感じた

出来ない自分と対面したくなくて

短縮させるのではなくて

むしろそれを日常にしてしまう方が楽だ

出来ない自分と仲良くなる方が良い

難しいのは当然だ

今までの自分を超えようとしているのだから

取ってつけたような事をしようとしているのではないから

難しい事は本来やる必要のない事

そんな事を考えて避けたくもなったが

驚きというのは 刺激というのは

その先にしかない

易しい事の先に私が求める驚きはない

それならばそこと対峙しなければ

それを日常になるほど時間を費やさなければ

求めるものに本気にならなければ

ひとは時間や力を持て余すと不安になる

不安なぞ 不満なぞ 忘れるほどに

夢中になる必要がある

私はそのために生きている

そのための準備を数ヶ月整えてきた

なんて事ないただの自分のままで

自分にできる最上を表現する

試し続ける事

それを面白がり続けること

深刻になる必要なんてないんだぜ

難しく考えるな

イメージに自分を委ねて

具現化してくれ 私

夏の思い出。

昨日は新しく購入したマイクで川の音素材を実験的にとりに行ってきました。

ようやく暑さも耐えられるくらいの暑さになって(それでも暑かった・・)

ほぼ地味なひとり作業が数ヶ月多かったので

録音がてらこの日は思いっきり楽しみました!

バーベキューを楽しんだ。

この日焼け!!!!!真っ赤!!!!!

顔は日陰にあったのか焼けてませんでしたが

足と背中がこのような有様になっています。

真夏の思い出。

 

川の録音なのですが

風除けがめちゃくちゃ良い仕事していて

結構風あったのにほぼノイズが入っていませんでした。

川のかなり近くまで近づけてとったのですが

これがもうめちゃ近くに川が流れてるリアルさもとれました。

蝉の鳴き声とかもとったりしたのですが

ステレオ感があってよかった。

今後は指向性などもう少し学んだあとに

海に行って本番の素材をせっせこ集めていきたいと思います。

良いものをゲットした。

 

本日は地味作業再開で鬼のように動いた。

明日も私の中の大切な思い出パート2を作りにいくので

そこに集中するために今日は今日でやることやりまくった。

最近三日分くらいの動きを一日でしている気がする。

今日もよく眠れそうだ。

一生かけて人生の質を高めていく。

「作家が物語を立ち上げるときには、自分の内部にある毒と向き合わなければなりません。そうした毒を持っていなければ、できあがる物語は退屈で凡庸なものになるでしょう。」

 

上記は村上春樹さんの言葉。

それを見つけ、スクショしていたものだ。

昨日の夜、私が心に残りスクショしていたものたちを見返していた。

昔のスクショでも、同じように今も同じように心に響く言葉が沢山ある。

これらスクショしたものをシ組のFaceBookに一日一つ載せていこうか、と思い立った。

私の言葉ではなく、私が心に響いた少量の言葉を載せていくことで

何かしらの新鮮さが見た人の心に流れるのではないか、と思ったからだ。

 

私はここ数日で自分の心がまた主戦場に向き合うための準備が

整い、それを始める時期にあるような予感がしていた。

そして今日はここ最近の中で一番早くに目を覚ました。

今日からまた始めていく、そんな心持ちがしている。

 

「どれだけ誠実に自分の日常に、人生に、主戦場に向き合い続けることができるか。」

遠回りすること(怠惰になること、自分に絶望すること、よそ見をすること)

他の情報を得ること

その全てを持って主戦場に戻ること。

机に持ってきた全てを広げて、そこから削ぎ落としていくこと。

私の人生はその繰り返しで成り立っているような気がする。

 

何回も主戦場から離れ、その度に土産を携えて戻ってくる。

自分の人生がクリエイティブだとするなら

その質をどうしたら高めていけるのか、日々試行錯誤だ。

昨日を超えて

生きている

いうことの素晴らしさのひとつには

今から始められる

というものがあるな、と ふと感じた。

昨日の自分と違う自分になること。

やりたいと思いながら出来なかったこと

ささやかな事だとしても

それがひとつできたとしたなら

またひとつの経験と成長があった。

さあ、明日の自分は何をしてくれるのだろう。

今日の自分が明日の自分の背中を見つめる。

そんな気持ちで瞼を閉じる。

こんなまんまで自分を存在させて本当にいいのか。

ニューヨークグラフィティシーンで活動していたライターのインタビューをみた。

私が最近うっすらと予感めいたものを感じていたものの断片が

言語化されているようで

このタイミングで出会えた事に必然を感じたくなるくらいだった。

 

ここ一週間ほどは半端なるものをシャットアウトして

自分が好きだったり尊敬する人の情報を集中して摂取していた。

自分の周りに常にそれを置いていた。

私の憧れの人は例外なく自分にストイックに集中して生きている人だ。

その存在をいつも見ていると少なからず影響を受けていることに気づく。

それは表立って「こうしたい!」と思うような影響ではなく

じんわりと自分の心理より深い場所で水が沁みてくるような影響の形。

 

自分がどれだけなまぬるい人間だったか気付かされる。

もっといけるというより、いける余白しかないとさえ思う。

それくらい私はまだまだ突き詰められていない。

私は今まで一体何をやっていたんだ。

気概が足りていない。ぬるいことばっかりしかしていない。

頭を使ったか、体を使ったか。

もっと書いて書いて書きまくれ。

ここでひとつ言いたい。

私の中で気概は気合とは違う。

気概というものは気合で作り出すようなものではない。

一過性のものでもない。

 

「全ては生活とスタイルの上にあらわれるのではないか」

 

これは誰かが言っていた言葉ではなかったんだけれど

急に自分の中から浮かんできたものだ。

気概や突き詰める精神力を保つためには

自分がいつでも自分に対して納得できる

土壌を整えている必要があるのではないか。

 

酒飲んで酔えばロック。

憂鬱になりながら曲をかけばアーティスト。

話はそんな楽なものではない。

 

やるべきことをやれ

目を見開いて現実を見ろ

自分の場所を整えろ

時間を自分の意思に基づいて使え

無駄なものを削ぎ落とせ

ようやく話はそこから始まる。

私はまだスタートラインにも立っていない。

この気づきを絶望ととる人間もいるだろうが

私からしたら楽しみでしかない。

 

自分がまだまだな人間だと自分に突きつけることは

お前はまだまだやれるという事と同義だ。

だからわくわくする。

自分の中の準備と覚悟が整っていくのを感じる。