自分という旗を掲げる。

国際女性デーという事で。

自分が女性という立場である事で

疑問や不快に思う出来事はある。

 

EPICを辞めた後に、音楽でお世話になった人と食事をしていると

「まぁまだシギは◯歳だからね。あと◯年くらいは大丈夫でしょう」

こういう事を平気な顔でいう人がいた。

とても失礼な事だと今は思う。

当時はふーんと聞き流して話を続けていたけれど

「失礼だな」と感じる人とは積極的に距離をとり関わらない方がいい。

 

音楽を始めた時も「◯歳でやるなんて!すごい!」と。

そして時間がたち年齢が重なると「◯歳くらいまでは大丈夫でしょ」と言われる。

私も含めて人間は勝手に他人を評価したりする。勝手なものである。

◯歳までは大丈夫とか、◯歳にもなって、というのは

音楽をやっている限りほとんど女性に当てはめられていたものに感じる。

そしてそれを口にしていたのは100%男性だった。

これは私が見た限りの話なので、

社会では男性も「良い歳こいて」などと言われたりする事もあるかと思う。

20代で色々な可能性が閉ざされるとするのなら

若いうちにしか挑戦や新しいことができないというのなら

圧倒的に先の長い残りの人生はどうなのだろう。

影の存在として何かを支えるために存在していろというのか。

容姿ではなく音楽を届けようとしているのになぜ年齢が関係するのか。

恐らくその場で私が問い詰めたら

「なんとなくそういうものだから」という答えが返ってくるように思う。

そういう「なんとなく」で決められているものが多く存在している。

先ほどの政治の話もそうだ。

「リーダーは男がなるもの、政治は男に任せるもの」

そういう「なんとなく」の考えがまだどこかに根付いているのを感じる。

誰が決めたともわからないなんとなくの習慣で人生を左右されてはいけない。

そういう人に人生の選択を預けてはいけない。

誰が決めたともわからない言葉を吐く誰かの言葉よりも

自分がどう生きていくかは自分で決める。

 

私の担当をしてくれていたプロデューサーの方はこう言った。

「音楽は歳を重ねなければ出せない味がある。

若い時にはわからない教養や苦労や重み。

それを表現するためには歳を重ねる必要がある」

そしてある雑誌の敬愛する編集長さんは私にこう言った。

「目の前の、一過性の売れるかどうかではない。あなたはそこは気にしなくていい。

あなたはずっとこの先も音楽を作り続けなければいけない。そういう人間だ。」

この二人とも男性だ。男性の中にも女性を年齢で見ずに

中身や資質を見て話をする人も必ず存在する。

もちろんそれは女性もそうだ。

「男らしさ」を当てはめてくる女性もいるだろうけれど

私はそういうのはやりたくない。

人を性別でジャッジして狭めるような発言はしないように気をつけている。

 

今の時代にあっては、簡単に年齢で女性を差別するような人も少ないかと思う。

オーディションの対象年齢もあがっていっているように感じる。

少しずつでも確かに変化している。

 

性別に限った話ではない。いろんなことに言える。

例えば音楽をしていて、ノルマを払いたくないのなら

払わなくて済むライブハウスへ行けばいい。

「そんなライブハウス存在しない」なんて思うのなら

自分でイベントをひらけばいい。

ライブハウスでなければいけない事もない。

「ここはこういうもの」「これはこういうもの」

そういう誰かが決めたのかわからないような決まりごとを

ありがたがって大事にする必要はない。守る必要性もそんなに感じない。

疑問を持ったり居心地が悪く感じるのなら

そこから離れて自分のスタンスが近い所に移動する必要がある。

そんな場所がないならその場所を作る。自分で自分を発信する。

音楽をやっていなくても、ツイッターだって十分だ。

私はこういう人。こういう人とは関わりたくない。

私はこう生きていきたい。こうは生きたくない。

自分の心、意思という旗を大きく掲げよう。

その旗を見て、私もそうだ、俺もそうだと思う人が近づいてきてくれる。

好きな人といていい。苦手な人から離れていい。

そうして自分の環境を変えていく事は、逃げでも甘えでもない、

自分の人生を考えているからこそ、当然のことだ。

人生の物語は自然にあてがわれるものでも与えられるものでもない。

自分で作っていくものだ。そしてその権利が私にもあなたにもある。

 

私は性別に関係なく、人を馬鹿にするような人や失礼な人とは関わらない。

年齢や性別でジャッジしてくる人とは関わらない。

性的な目、下心で見てくる人とは関わらない。

人間として尊敬しあえる関係性を作りたい。

自分の中でこうした決まりごとを作ると、生きやすくなってくる。

自分が誰と関わるか、それは自分が決めていいこと。

 

 

社会自体に居心地が悪い時

居心地を悪く感じている人がいる時、声をあげている人がいる時には

立ち止まってその声を真摯に聞く必要がある。

その時にその人にジャッジメントをせずに、まっさらな心で聞く必要がある。

国際女性デーは、そのような女性の声を聞ける日だ。

同じ女性として、共感したり勉強になったりする。

私は聞きたい。同じ女性がどんなことで苦しみ、どんなことが願いなのかを。

 

そしてこれを見ているのが男性だったら、異性がどう思っているか

何を違和感に、嫌悪しているかについて学べる良い日だ。

国際女性デーだけではない、男性の日も11月にある。

お互いがそういう日に、互いについての理解を深めるのは

社会全体が居心地の良いほうへ整っていくために大切な日だ。

人が生きやすく、自分も生きやすい環境を作っていきたい。

豊かさや恵みを特定の人たちだけに流れる仕組みであってはいけない。

今日は国際女性デー。

アメリカで女性労働者が参政権を求めてデモをしたのがきっかけだ。

権利は主張するもので、誰かが与えてくれるものではない。

誰かがなんとかしてくれると思っていては良いように使われるか

そのまま変わらずに放置されるだけだ。

 

女性として、若者として、危機感を覚える出来事があった。

そのことを書きたい。

 

前に一度、政治家の方々の前で歌う機会があった。

当初そのような機会が初めてだったので歌う前は緊張していたけれど

舞台にあがった私は歌う緊張はすっとび、危機感を覚えた。

会場の9割が男性で、中でもお年を召された方が目立った。

ほとんど女性の姿が見えずに

女性の姿を見つけても男性にお酒をついだりしてコンパニオンのように見えた。

これが今の政治の縮小版といっても過言ではないのだろう

私は政治家の会議写真を見た海外の人が

「日本では女性は絶滅したのか?」と冗談をいったという話を

目の前のリアルで体感した。

そしてこの現状はあまりにもおかしいと感じた。

 

この国を動かすのは若いエネルギーではないか。

年配の方は必要ないと言っているのではない。比率が偏り過ぎている。

長い間の経験も必要なことも中にはあるかもしれない。

けれど実際エネルギーとして動かし築いて行くのは働き盛りの人間と

そして未来大人として国を動かす事になる子供達ではないだろうか。

まだまだ子育ては女性が担う部分が多いこの国にとっては

その子供を育てながらも働いている二役を担う女性の意見は

最も大事といっても過言ではないのではないか。

彼女達が働きやすい、子供が育てやすいと思う国にすることが

国の繁栄にも繋がる。

少子化という問題は、女性に問題があるのではない。

女性がこれでは産めないと判断する社会のシステム、構造に問題がある。

今のやり方では無理だという答えが少子化として表れているのではないだろうか。

今のままではこの国を作って行く人たちがやりづらい、問題があるのであれば

それを変えていかなければならない。時代に合ったやり方で。

しかし現代に合ったやり方を、年配の男性がほとんどをしめている中で

果たして見つけられるだろうか、判断ができるだろうか。

私は今を担っている年代の方達に現代の感覚は任せた方が良いと感じる。

年配の方の中にも、革新的な方はいらっしゃるだろう。

そういう方の意見は貴重だ。

現状では(私が感じた限りでは)ほとんどが年配の男性だった。

女性に決定権が与えられない。女性不在。

これで子供を作ってください、と求める事自体に違和感を感じる。

一体誰のため、何のためなのだろう。

 

コロナウイルスの件で台湾の政治家、オードリー・タンさんが話題になった。

38歳、中学中退、男性から女性になったトランスジェンダー。

今の時代を表している肩書きに感じる。

オードリー・タンさんはこう話している。

「昔のように皆で過酷なひとつの競争をして一位を目指すのではなく、

それぞれの得意を知り、そこを伸ばしていった先に豊かな社会が生まれる。」

インターネットの意見を幅広く政治に取り入れようとした彼女を

他の政治家達は心配する。

なぜならネットには政治家の批判があふれているから。

けれど彼女は

「国民が参加してこそ、政治はよりよくなる、前に進める」と説得をする。

今の時代感覚に寄り添った存在だと感じる。

そして彼女はコロナウイルスという想定外の自体に強く活躍をしている。

 

日本はこの先もらえる年金が減って行く、終身雇用制度が破綻する、

公務員だから安泰とはいえない(精神的ストレスもかかる)。

数十年前までの日本のままでいようとする事自体に、無理が生じている。

時代に合わせて大きく変えていかなければならない。

その時に、その変えて行く中身を決定する集まりが

偏った性別で、若い人の少ない集まりで

果たしてこれからを生きる若い人や子供にとって

この先も続く国家にとって

本当にベストな選択ができるのだろうか。

時代は変わって行く。

それを恐れるのではなく、

その肌感覚が一番研ぎ澄まされてる世代が決断をしていける国であってほしい。

 

ステージの上で歌い、目の前にいる国を動かす決定権を持つ人たちを眺めながら

私は恐ろしいような、薄ら寒いような気持ちになった。

この出来事を体感してなおさら、

若い人たちの意見、感性、意思がこの先大切になっていくと感じた。

どんなことだって、声をあげなければならない。

豊かさや恵みを、特定の人たちだけに流れる仕組みであってはいけない。

言葉を歌にして吐き出すもののひとりとして、そして女性として、

他人事でいてはいけない。そう感じた。

国際女性デー。

今までは見過ごしていたけれど

女性のひとりとしておかしいことにはおかしいと声をはっきりあげていきたい。

今回は少し大きな、けれど身近でもある事について書いたけれど

次はもっと女性の立場で疑問に感じた身近な出来事について書こうと思う。