神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で
19人の殺人事件を起こした植松被告に関しての記事を見た。
「誰の中にも優生思想がある」
優生思想というのは
「生産性が高い人には価値がある」
「能力が高い人には生きる価値がある」という思想のことだ。
私たちの中にも、
「あいつは使えない」とか「こんなこともできないのか」など
人に優劣をつける思想を悪気なくもってしまうことがある。
けれどその思想を持つことにどれくらい踏みとどまることができるか
そうではない選択を理性で選べるかがひとりひとり問われている
ということが記事では書かれている。
あなたの中に思い当たる節はあるだろうか。
この記事を見たときに
私の中にもあるだろうな、と感じてはいたのだけど
今日まさに自分の中にそれがあることに気がついた。
しょへすんと話していたときのこと
弱者という曲についての話をしていたときに
私はこう言った。
そしてこの言葉はブログなどでも書いていた。
「本当に弱いのは傷ついたり倒れる人ではない。
むしろ心がそう感じられることは強い証なのではないか。
本当に弱いのは、自分の弱さに向き合えずに
甘えだとか人のことを攻撃したりする人なのではないか」
この言葉を聞いたときに、しょへすんは
「強い人が弱い、弱い人は強い、と比較して誰が弱いという事も
優生思想なのではないか?」と私に言った。
弱いとされている人は本当は強い心の持ち主だ、というのはいいけれど
比較として強いとされている人を
弱いと否定的に言う必要はないのではないか、ということだ。
確かにそうだ・・・と私は言われるまで気がつかなかったので
とても驚いた。
私がきっとこういう気持ちを持ったのは
傷ついて苦しんでいる人をかばいたくて
ある種、いじめっこに対して拳をあげたような言葉だ。
対抗する言葉を言いたい、というような気持ちからだ。
けれど、いじめられてもいない関係のない立場の私が
いじめっこを懲らしめたりしても
自分が気持ち良いだけだ。
いじめっこの、人をいじめたくなる心理や
その人の家庭環境などの中に何か問題があり
その人をいじめに走らせている可能性があるのではないか
いじめっこでもいじめられっこでもない立場の私にできることは
誰かを裁くことではなく
知ろうとする姿勢をもつことではないか。
自分だったらどうするか、何ができるかを考えることではないか。
そう感じて、反省した。
きっとこの先も、許せないことはあると思うし
自分の中の正義感が燃えることもあると思う。
批判したくなることも出てくるし
そうする必要があると感じるときもあると思う。
そして私は自分で「よくなかったな」「間違えたな」と
思うこともたくさんこの先あると思う。
自分の気持ちのひとつひとつに
「絶対的な正しさ」を与えないように気をつけたいと思った。
自分の気持ちに嘘をついたりはしないけれど
間違えも必ず自分の中には含まれているだろう
そして気づかない間に傲慢な気持ちになっていたり
裁く気持ちが出てきて誰かを傷つけたりしていないか
優生思想という言葉をきっかけに自分自身の心
を振り返ることができた。
”内なる優生思想”に気づいたとき、私たちは何を選択すべきか