自分からは逃げられないし逃げなくてもやっていける

10代から20代にかけての私はとにもかくにも腰が重くて

とにかく「めんどくさい病」がすごかった。

 

成人式は晴れ着を着て会場まで行ったけれど

仲良い友達と集合したあとで

「なんかめんどくさいからジョナいかね?」となって

成人式には出ずにファミレスで喋っていた。

 

成人式も終わったという頃に

「このあと同窓会あるみたいだけど行く?」と聞かれて

「めんどくさいから帰るわ」と言って私だけ帰宅した。

 

 

とにかくめんどくせーという気持ちがあった。

姉がピアノ行ったり塾に行ったりするなかで

私はめんどくさいから家にいるわーと習い事もしなかったし

さすがに成績がやばいと家庭教師がついた時も

教えられてる最中に寝てしまって早々にリタイアしたし。

振り返ると我ながらちびまるこちゃんを地でいってるような感じがする。

 

しかし高校三年の時代に勉強に目覚めて大学行くことになった時は

中学高校とめんどくさくて勉強をしなさすぎたために

さぼることに飽きて

勉強するということが面白かったためだ。

 

めんどくさいを使い過ぎてめんどくさいが

もはやめんどくさいになった。

 

なので「何もする気が起きない」という相談に対しての答えは

私だったら「何かしたい気が起きるまで何もしないでいるのがいいのでは」と

答えるかもしれない。

 

 

めんどくさいを使い過ぎたというよりも

何かに気を配らなきゃいけないという気持ちを持ってたからなのかもしれない。

何かの決め事があって、何かの範囲内で生きなきゃいけない

そんな気がしているという気持ちを持つことが

めんどくせーに繋がっていたんだろう。

思い込みもあるかもしれないけど

子供の頃は事実言われた通りにしなきゃいけないことも多い。

 

大人になってもそれを引きずる人は多い。

私はそうだった。

協力してくれる人や応援してくれる人が喜んでくれるようにとか

自分が満足いく結果が出るようにとか

何かしらそういうゴールラインというか決まりがあって

それが私の世界をすごく小さくさせていた。

それに応えられる自分でいたいと思っていた。

 

でもその後の私はその小さな世界を壊して

その周りにある外の世界の空気が入ってきているのを感じる。

何かを気にしていたのが今となっては少しバカらしく感じる。

ただの自分で生きることでしか結局道は開かれないのだと思った。

 

応えられる自分でいたいとか人や自分の期待とかで

やる前から自分にハードルを課すようなことをするのは何にもならない。

ストレスになるばかりだ。

ただ自分の心が動いたことをきっかけに形にしていく。

頭と手は両方動かさなきゃ形にはならない。

 

めんどくさいの時は、頭ばっかり動かしていたからだ。

考えて考えて、何かに気を使って、それだけで疲れることなので

行動にうつす余力が少ないので

疲れた=めんどくさいという気持ちに繋がってたのかもしれない。

しかしそんなことを繰り返していては現実は何にもなっていない。

その現実を直視すると一度すごく絶望的な気持ちになるけれど

それは事実なので感じた方が良い。

そしてできることからやっていくのだ。

 

絵を描く、私はこんな程度だ。

でも良い絵が描ける高揚感に浸れる時もある。

この先これをしていきたいという道のりもでてくる。

歌を録音する、私ひとりではこんな程度だ。

でもそれを祈りの気持ちで吹き込んだものなら

ただの私の恥ずかしい裸を人に渡していく。

そもそも完璧なのが素晴らしいわけではないということは

私自身が受け手の時に思っていることではないか。

 

うまいだけの歌が

うまいだけの絵が

私の心を動かしているわけではない。

むしろ作り手の人間性の中にある

切実さや純粋さが感じられる時に

私は感動するのだ。

 

自分が感動するその指針に従って

しょぼいままでも生きていく。

 

「未完」という歌を去年かいた。

年を明けてから私はふっと頭に浮かんだ。

未完成ということの素晴らしさを。

人間は完成されない。それがいい。

自分の創作も完成されていない。

未完なままで一歩二歩と創作を続けること。

 

そういう感触を覚えはじめたときから

だんだんと周りへの気遣いや自分への期待が

気にならなくなっていった。

自分で感じたことをやっていくより他ない。

そこに周りの顔は浮かばない。

周りがどうでもよくなったのではない。

私と私以外の他者への気遣いではなく

私と他者に愛情や平穏を想う祈りで

言葉や作品をつくっていくことが

私がただできることなのだと思うようになった。

 

人や自分がする自分への期待や

人を喜ばせたいという気持ちは

人を見ているようで見ていない。

自分に期待値をかけて自分を満足させたい気持ちからくるものだ。

それが悪いこととは思わないけれど

それが大きくなると自分を苦しめることや

なかなか踏み出せないことに繋がる。

 

めんどくさいとか気が重いというのは

ある意味わかりやすい自分へのサインだな。

作品を書き続けることも

情報を常に追っていくこともめんどくさいけど

そのめんどくさいとは少し種類が違う。

前者のめんどくさいは主体性が入る前に感じることで

後者は主体性の中からうまれためんどくささ。

 

どんなに好きなことでも何かを作り上げるのはめんどくさい。

工数があるからだ。

それをうわまわる熱量や好奇心や癒しで

自分を萎えさせないことは必要になる。

それでも等身大の自分でやることをやれているという喜びがある。

自分のしょぼさを受け入れると楽にもなる。

 

世の中も自分も生きてれば色々ある。

コントロールできないことの方が多い。

それを受け入れたうえで今の自分にできることをしていく。

できること、していきたいこと、心が喜ぶこと。

 

この自分でもう一度生きていってみよう。

そういう気持ちが湧いてくるような音楽を作っている。