最近、私が結構衝撃を得た言葉で
「脳味噌の中にどんな言葉をいれるかってことにも神経を集中しろ」
というものがある。
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脳味噌にある言葉が自分の行動に強く影響する。
慎重な言葉が頭の中に多ければ慎重な行動になる。
だから、自分がしたい行動に合った言葉を脳味噌にいれろというもの。
言葉にすると当たり前のような気がするけど
それを意識して行動してる人は多くないと思う。
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先日書いた「会いたい人に会う」というのもここからきている。
私は自分が自分をより良くさせるもの
前進させるもの
成長させるもの
学ばせてくれるものからの刺激を受けたい。
そのためにはそういう人間に会い
そういう本を読み、そういう作品を知る。
そのモードが脳味噌の中のデフォルトにする。
意識してこういう事をしてみると
いままで自分がどれだけ
その場の流れにただ乗って言葉を頭に入れてたかを知る。
自分が本当はどうしたいか
どうありたいかがわかると
それに向かって何が必要かがスルスルッと出てくる。
何を聞き、何を口にして
何を行動するかは自分が決めること。
もちろんコントロールできない事もあるけど
コントロールできる範疇をどれだけ意識的にやるか。
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「何を聞きどう行動するかは自分の責任なのだ」と思うと
どう感じるだろうか?きついだろうか。
私は冷や水をぶっかけられたような
目の前が開けるような清々しい思いがした。
自分を被害者意識に置いてると
「周りがこうだから」
「こうしてくれないから」
という意識になって
頭の中を占める言葉がそういう言葉になるものだから
行動もそれに基づきがちになる。
でもそれだと周りに支配されている。
自分を取り戻さなきゃいけない。
ただ自分がやると決めたことをやるには
しんどい事もあるし地道な事もあるし
おまけに心身の健康の重要さも感じて
(しかも維持させる必要性なのでハードル高し)
土台ごと根こそぎ改革しなければなんだと悟ったり。。
ここ数ヶ月本当にそんな日々だった。
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スクラップアンドビルドしないことには
なんにも変わんねえなと自分に思った。
人生という物語は
そんなに簡単に劇的に
変わってくれたりしないんだなって。
当たり前だけどよう。
スクラップアンドビルドの決断には勇気が必要で
継続には心身ともに体力がいるんだなと身をもって感じると
そこから自分が人に渡せそうなことが見えてきたりもした。
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多くの人はそれら決断を避けて
言われたことをやるモードに身を置く。
でもそれだと心のどこかに
不満や孤独が渦巻く瞬間がある。
なぜなら自分の意思に心を開いていないから。
自分の力を持て余しているから。
表面では仕方ないからとかああだこうだ言い訳をしたり
冷めた表情で悟ってる風を装いながらも
心の奥底では「つまんねええええ!!!」と言ってるのだ。
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私はほとほと自分のしてきたことの
馬鹿らしかったことを認めて一度ものすごく後悔した。
冷静に現実的に過去をあげると後悔は山のように出てきた。
そうすると、その自分と決別ができた。
俺はもうそこにはいられないよって、自然とそう思えた。
私はやりたいことがあり
やると決めたことをやっている人と話したい。
それは私自身やりたいことがあり
やると決めたことをやっている人間だから。
(まだ外側に出ていないのがもどかしい所もあるがそれも修行)
お互いにパワーを与えあいたいし
その空気感を広めてより味わいたい。
そういう人に囲まれて生きたいとここ数日、心から思った。
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やりたい事をやりたいと思えない人も
そもそも自分にはそんなものないと思ってる人も
それはそう思い込んでいるだけで
頭と心があって生きている限りそんなことはない。
大抵、ほこりを被ってて
それをはらっていないから見えなくなっているだけで
ほこりをかぶった状態を自分だと思っている。
でもそれは自分ではない。
「ほこりをかぶっている自分」なのだ。
ほこりとは
失敗した経験、後悔、トラウマ
嫌な記憶や人間関係、不安な妄想など。
自分を下に下に引っ張るようなもの。
変化より、ほこりまみれでいた方が安心ではある。
けれど、楽であっても楽しくない。
その実、楽でもない。かなりしんどい。
だんだんと生きる気力が削がれる。
なんで生きてるのかということが自分にわからない。
自分として生きてきているのに。
見渡すと自分にパワーをくれる存在はひとりもいない。
うっすら何かの希望を見つけても分かち合う人がいない。
見渡すとみんな愚痴をいったり
意識低い方が良いように見せたり
何かに困った素振りをして時間を潰したり
ありのままでいいと言い合ったりして
成長しないように互いを落ち着かせあっている。
するとたちまち
うっすら出てきた希望の風船がしぼんでいく。
代わりにネガティブな風船が現れてくる。
それを大事に抱きしめてしょぼくれる。
やっぱり自分はこうなんだ・・・
っってわけねえだろがあああああああああ!!!!
と、私は冬の袋田の滝の水量全てを
そう思った人類にぶちまけたい。(しむ)
HUKURODANO・TAKI☆
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昔の自分に言いたいことのひとつだけど
あれやったらこうなるかな
これやったらああなっちゃうかな
っていう心配は
やってみてその状況になった時に考えなさいと。
現実的なリスクを想定して
それに対する対策をあげておくことは良いけれど
リスクに対する嫌な気持ちを思い浮かべて
その気持ちに引っ張られてるとやってられない。
その気持ちでもう辛くしんどくなる。
人間はよくできているから
不安やストレスや懸念はキリがないほどでる。
でもそれは妄想と同じ。
幽霊と同じ。現実ではない。
自信をもつのも同じ。
最強だと思うのも最低だと思うのも同じ。
それなら
自分がどういう感情でありたいかの方の妄想を出す方がよい。
そっちにフォーカスを当てるように意識しまくる方がよい。
根拠ない心配やネガティブが襲ってきても
理性を使ってありたい方に戻す。
それを周りは信じないかもしれないし
むしろ乗っかるかもしれない。
私はこういう時、他人の「自分を信じたい」という方に乗っかる。
相手より相手の可能性を信じるやつであろうと最近決めた。
世の中、現実的という言葉で下に引っ張る言葉に溢れている。
それならば私は、「自分を信じたい」という人の信じたい気持ちを
ブーストさせる方に賭けたい。
それが現実的かどうかより
人を信じてる人間がいるかどうかの方が大事だ。
人間、誰からも信じられてなくて
自分さえも自分が信じられない時、絶望する。
絶望した人はたまに他者を傷つけ
自分自身も傷つける。
そういう負の連鎖を断ち切らないといけない。
出来るならそれができる人全員で断ち切っていく必要がある。
相手の中にある切実な輝きを信じたい。
私は君を信じる。
君の中にある強さを
後悔と辛さにより磨かれた美しさを。
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自分の脳味噌に
どんな言葉をいれたいかを考えてみてほしい。