優しかったのは君だけだ

ジョーカーを見に行った!

だらだら書いていく。

見る前からネット記事とかで不評だったりを見てたので

どんなもんかとドキドキしながら見に行ったが

私は自分の心情とマッチできたのか1の時よりも楽しめた。

(1の時はジョーカー内容と自分のその時の心情があまり合っていなかった)

 

各場面で絵画のように感じる綺麗な場面や

1に引き続きのチェロの凄み

華やかなエンターテイメント的豪華な音楽の終わりが

不協和音と共に混じって不穏さを持ちながら本編へ戻っていく。

そういう演出も良かった。

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以下からネタバレになる。

 

まず見終わった時に

「悲劇は喜劇というけれどそれは本当なのだろうか」と漠然と思った。

所詮、喜劇と捉えることができて

笑いものにできるのは当事者ではないからなのではないかとか。

観客でいられる時だけ、高みの見物ができる時だけ。

 

あとこれは1からそうなのだけど

悲しいくらい誰も本当のアーサーを見ていないんだなぁと終始感じた。

誰も自分を見ないし感じようともしてくれないってどういう感覚になるんだろう。

そういう疑問を持つこと自体が

私が環境として恵まれてきたことの証左だ。

 

唯一ジョーカーではなくアーサーの本質を見てくれていたのは

ゲイリーくらいだったんじゃないかな。

ゲイリーの「君だけは僕に優しかった」という台詞を

あの場にいた人のどれくらいの人がちゃんと聞いたんだろう。

 

 

証言台で話されたアーサーの母親についての話は本当に胸糞悪くなった。

と同時にその母親がどんな親に育てられたかも想像がつく。

結局こういうのは連鎖した負のループで

それを負のループに巻き込まれないで済んだであろう

高級職のような立派そうだけれど

心の機微に欠けてそうに見える人たちが(これは私の偏見)

爆破して一瞬で吹っ飛ぶさまというのは

起承転結の転をずいぶん力技でねじ曲げたなと驚きつつ

その場面でどこかそういう人を見下して

清々しい気持ちになってしまう自分の感情の暗がりのようなものもあった。

 

それでどんな金持ちだろうが良い職業で偉そうにしてようが

負の存在とされた人たちによる爆発によって

高見の人間たちも巻き込まれていくというのも

人間の世界って感じがすごくする。

結局良い環境に育って人を見下して嘲笑ってるような人間も

巻き込まれて運命を共にしてしまうというところが。

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ビートたけしがファンが一番怖い

みたいなことを言ってたのをいつか見たけど

この物語を見てもそう感じた。

勝手にジョーカーを自分たちの都合の良いように神格化して

期待に添わない行動をすると

裏切られたかのような振る舞いをする身勝手な人たち。

自分の行動の正当化のために他人を使いたいだけの人たち。

アーサーは元々リーダーシップがある訳でもないし

信念を持って人を殺めたわけでもないから

結局自分自身の身の丈に合わないような仮面をつける事になる一方で

本当は誰よりも純真で優しいはずのアーサーの対比のような矛盾したものが

大雨の中ひとり泣いてるのか

笑ってるのかわからないような場面に入ってるようで

アーサーの心情が感じられて辛い。

 

誰もアーサーを見ていないし、

アーサー自身も幼少期から背負わされた役割をこなすことで

自分がどんな人間なのかもわからなくなる。

それを親身に話し合い分かり合える感受性を持つ人もいなかった。

 

唯一自分を理解してくれると思ったはずのリー(レディーガガ)も

やはり自分ではなく仮面としての存在であるジョーカーを

見ているというのも辛い。

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映画のエンドロールで

ジョーカーに憧れ近づき

アーサーに冷め離れていったリーが

ザッツライフを華やかに歌い上げる曲が流れ

その後にアーサーがつたないアコギ一本の音で

ラブソングを歌うという対比も切なかった。

 

なんか、アーサーの心の底にある純真な願いと裏腹に

自分の本質を見もしない人達に良いように

利用されるばっかりのどうしようもなさが辛かった。

 

アーサーが最後にザッツライフを歌って

「いろんなことがあるけれど

それでも僕は諦めることができない」

アーサーが刺された後にその曲をアーサーが歌って流れるのも

またエンタメとしては皮肉になってよかったけれど

そうはせずにアーサーの中にある純真さを

一番ラストに歌に乗せ持ってきたことの

監督の誠実さみたいなものを私は感じた。

 

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まぁ、確かにめちゃくちゃ俯瞰してみれば

環境に恵まれなかった哀れな犯罪者が

獄中で恋愛をするも有罪になり恋人にも振られる

というどうしようもなさを喜劇としてギャグ的に思えることもあるけど

やっぱりそれは当事者ではない立場だから笑ってられるのであって…

と思ったけれど、文字通り、悲劇というのは「悲しい”劇”」なのであるから

人生ではなくそういう劇だと思えばそれは笑えるのかもしれない。

けれど人生はやっぱり劇のようではあるが劇ではなくて、

劇のようなものだと捉えて生きることを私もするけど

人生は命がかかっていることだから、

だからアーサーという劇なら喜劇にもなるかもしれないけど

そういう人間が現実にも存在していると思うと

それを劇として喜劇だよねえと言って「夕飯じゃぁ何にする?」みたいに

一時間後にはもうそんな事も忘れて

普通の生活に戻れてしまうということが

そういうことが私はなんとも心に引っ掛かりを感じてしまう。

 

かといって私も四六時中そういう事を考えてるわけじゃないんだけど。

そう思うと自分も結局は仕事の時だけ粛々と対応するような

弁護人や検察官のような人間と何も変わらない部分があるのかもなと思う。

そういったものを段々突きつけられているような気がしてくる。

などといったりきたり、考えを巡らせていた。

それでもそこで虚無で終わらせるのはエネルギーに欠けている。

信じたいという輝きをどん底でも否定したくない。

 

救いとは一体なんだろうね。