寂しいよおおおおおおおおお

昨日はめるの葬儀場を予約して行った。

 

亡くなった日の夜に葬儀場どこにしようかすごい探して

電話したとこがまじでくそだったのでやめて

しかもその電話した所はいっぱいだから6日以降になると言ってて

他のとこもいっぱいだったらどうしようと色々探しあぐねた。

その後観音様的なのがいて自然豊かな静かな場所か

寺と併設してる人も動物もいる賑やかな場所かで悩んで

めるちは私に似てマイペースで気ままにほっとかれたいタイプと思ったから

静かな方に電話したらすぐ対応してくれて優しく親切な人でよかった。

 

めるちを持ってって安置所に置いてお線香あげたりしたんだけど

そこで面白いことがあって爆笑した。

いつも部屋で過ごしてる賑やかな感じでお別れできてよかった。

葬儀場の担当の人も私より年下の女性で接しやすくてよかった。

今月法要でまたそこへ行くことになった。

 

人と話してると普通なんだけど

ひとりになるとふと思い出したりいきなり涙が出たり

朝まで眠れなかったりして

めちゃくちゃペットロスの症状が出た。

亡くなった当日の夜は葬儀場探しで集中していたから気が紛れてたんだろう。

 

どうやら介護をしてすごいお世話した人ほど

ペットロスになりやすいみたい。

ペットロスについて調べてたんだけど

・後悔や自責の念がある(私がこうしてれば…あの時ああしてたら…)

・自分の所に来なければもっと幸せだったんじゃないか…

などを思う人はペットロスがひどくなりやすいみたいだ。

私はそれを見ていて

「俺は全く後悔も自責もないし、めるちは私のところにきて100000%幸せだったに

違いない」と思っているので重症にはならなさそう。

 

あと亡くなってすぐ心身の症状がでるのはむしろ自然なことで

その時に泣くのを我慢したり知らないふりすると後に響くようだ。

ここも私はひとりで泣きまくるので、大丈夫かもしれない。

 

快方するのに2週間から1ヶ月は平均でかかるみたいなので

いずれ時間が少しずつ癒してくれると思うことにした。

私の場合はただ寂しいっていう気持ちが100%をしめているから

めるの遺毛を供えたりすることで少しずつ整理していけると思う。

 

こういう時、打ち合わせとかあると気が紛れて良い。

昨日もしょへすんと話せたのでだいぶ気が紛れた。

太陽に浴びることとなるべく自炊して栄養のある食べ物とって

軽い運動をし始めようと思う。

 

今心理学の勉強をしていて来月試験の申し込みをしたので

それに没頭するのも良い。

 

眠れない間、

自分が自分のカウンセリングをしたらどんなだろうなとか

そういうのを想像したりした。

心理学の勉強をしているとクライアントの心身も含めた症状について

少しばかりは詳しくなるので

自分の心と体に起こることを自然と冷静に客観視して

これならこうすればこれくらいで普段通りになるかもな、みたいな

見立てをするようになった。

 

冷めてるようだけど、

どこまでいってもこれは”ストレス反応”でしかないので

自分の身にその反応が起きていると思うと

ひどくうろたえることもない。

でもどれだけ専門的なことを勉強したとしても

寂しいいいいいいいい!!!!!!!!

という気持ちに変わりはないのだと知った。

 

寂しいもんは寂しい。

ただこれだけ自分にとって寂しさを感じる対象がいた

ということ自体がものすごい宝なんだなと実感した。

 

めるちは痛みがない世界にいる。

現実を生きる私は痛みの存在する世界にいる。

これもひとつ私が乗り越えるべき修行なんだろう。

ただ修行であると同時に

思い出とめるという存在自体(概念)は

私の一部になったという実感がある。

 

生きている時は自分の一部ではなく個々で存在していたけど

体がこの世からいなくなると

概念(魂や思い出など)が自分の存在の一部としてセットされる

そんな感覚になっている。

形としていない現実の寂しさには襲われるが

巨人軍は永久に不滅ですといった言葉みたいに

私が生きているかぎりめるちの概念は永久に不滅だ。

それはひろも同じ。

 

大切な存在がこの世からいなくなると

本当に寂しいんだけれど

同時に自分が逝くときにその存在が待ってるかもしれないと思うと

死んだ後のことにたいしてネガティブではなくなる。

みんなが行く道で、自分もいつかそこにたどり着くんだな。

それまで、肉体と心がセットされている間に

自分がこの世で何をどれだけ出来るのか

そこに集中して生き抜きたいと思う。

 

めるちがいなくなって

「寂しい」という思いと

「めちゃくちゃ気が楽になって好き放題できる」という

相反する気持ちが心の中に存在する。

この矛盾したものを抱くのはすごく人間ぽいなと思う。

 

そんで、めるちの介護から解放された2025以降は

本当に自分の活動を思いっきりフル解放でやりなさい!!!と

神様のような存在から言われているような気もする。

 

もう当分生きているもののお世話をすることはないだろう。

(かめちゃんと植物はいるけど)

自分がすべきことをするための時間を手加減せず使っていきたい。

そしてその時間がひと段落したら、

困っている動物と暮らすのも悪くないかもしれない。

今は今の自分が決めた役割を駆け抜ける。

先のことは、先の自分に任せる。

2025、しょっぱなから激動なので激動の予感だぜ。