化学変化

本当に自分が形にしたいものとはどんなものなのだろうか。

なぜ、それをするのか。なぜ、私がするのだろうか。

どうして、それをした方が良いと思うのだろうか。

そのために、何を変える必要があるのか。

 

1日しょへすんとアレンジしていて

思っていた以上の良いアレンジに突入した。

始めてから6時間後で良い場所に差し掛かった。

こういう事があるからすごく面白いなと思う。

想像外の所に辿り着くこと(想像の範疇よりも良くなる)。

 

昨日はしげちゃまも混ぜてスタジオに入った。

アレンジとか個人の作業とかで地味な時間が多いので

大きな声を出したり人と楽しい時間を過ごせるとすごく癒される…。

このメリハリ具合が今ちょうどよいバランスな気がしている。

本当はもう少し色んな人と出会いたいんだけど

誰に会うにしても今は自分が作っているものを形にしていかないことには

何かの化学変化も起きようがないので

今はグッとこらえてそこに集中している。

 

 

 

自分が形にしていきたい世界観や形態の力添えを一緒にしてくれる

感謝に溢れているこの頃。

アレンジもそうだし、楽器を鳴らし合うのもそうで

その人と私だからこその化学変化みたいな

そういうところに人間としてとか、音楽としての面白さを感じる。

言葉の刃物で切り付ける奴を切り付ける

私が怒りを感じる時は大体似ている。

 

自分のことではあまり怒らない。

ややこしい人や失礼や無礼な人が現れたとしても

怒りよりも先に相手の存在を消してしまうので(ミュートなりなんなり)

蚊を外に出したくらいの感覚でいる。

(心の中では思い切り罵倒してはいる。)

 

私が好んで見ているyoutubeがいくつかある。

基本的には穏やかで平和な空気が流れているが

ごくごくまれに私の目に意地悪なコメントが入ってくる。

そのコメントは何の学びにもならないただの意地の悪いコメントだ。

 

例えば、

「何を言ってるのかサッパリわかんない(てへぺろんみたいな顔文字を添えて)」

みたいな低俗なものや

「あなたみたいにヘラヘラしながら話してる人は社会の害悪だ。

社会の役に立ってる人間は眠らずに苦労しているんだ。」

みたいな訳わからないものもあった。

 

私は基本的にあまりSNSでもコメントしないのだが

こういう時は黙っていない。

大体私が見ているチャンネルは

大人しそうな女性がやっているチャンネルで

見てる人コメントをする人も控えめなタイプの人が多そうな印象がある。

 

だからか失礼千万な奴のコメントに何も言わない。

それはスルーして大事にしないという意思表示かもしれないけれど

私は自分がチャンネル主だった場合に

いつも良いコメントをくれる人

がみんなその失礼なコメントを無視していたら

少し切ない感情に襲われると思う。

誰も味方をしてくれないような気持ちになると思う。

でもきっと優しく控えめな人が多いから触れないのだろう。

 

だが私はそういう空気はあえて読まないので突っ込んでいく。

「何を言ってるのかサッパリわかんない(てへぺろんみたいな顔文字を添えて)」

みたいな奴に対しては同じような態度で

「あんたの頭じゃ理解できないか(てへぺろんみたいな顔文字を添えて)」

みたいな返答を、

「あなたみたいにヘラヘラしながら話してる人は社会の害悪だ。

社会の役に立ってる人間は眠らずに苦労しているんだ。」

という訳わからん難癖をつけるやつに対しては

「人の役に立とうと動画をあげてくれる人の心を折ろうとする

お前の言動こそが社会の害悪だ」

と書く。

 

外でもそうだけど、私はこういう時べつに怒ってはいない。

むしろこの高まりをどこか楽しんでいる。

日常ではなかなか味わえないイベントだからだ。

 

世のため人のために自分の好きなことで頑張ろうという

そういう清い川のような存在の

清い気持ちに空き缶を投げつけて汚そうとする存在を見ると

ぶっ飛ばさずにはいられない。

 

私の口撃はめんどくさいと思う。

理論詰めとアウトレイジが混ざったようなタイプなので

それによって若い頃はイラッとすることを言う人に対して

100倍返しして傷つけて泣かせたこともあって

そこからあまり自分が思い切り思ったことを話さないようにしようと

なるべく優しいを心がけ刃物を納めていたんだけれど

最近この刃物の使い所を知った。

 

「馬鹿とハサミは使いよう」というのは、

まさにどっちも自分のことだなと思う。

一見短所な部分も場所によっては使える。

 

ちなみに、こういう時に仲介に入ろうとする人はあまり好きではない。

お前は同じ阿呆のくせして何を穏便にすませようと思っとんねん。

祭りじゃぞこれは。お前も踊れよ。という気持ちだ。

 

「同じ土俵にあがったら負け」理論の人とも話が合わない。

そもそも相手がどんなうざい奴だとしても人間という観点において

私たちは全員同じ土俵で対等だと思っている。

それに対して「自分の方があいつよりはマシだ」という優劣の姿勢が

「同じ土俵にあがったら負け」理論の人には感じ取れる。

私は清い人の心に空き缶を投げつけて汚す奴を許さないが

そいつより自分が優れているとはみじんも思わない。

同じ人間だと思っている。

同じ人間としてお前はそれでいいのかと思うから言いにいく。

 

 

とはいえ私だってそこらへんの通りで喧嘩が起こった時に

「わたしもわたしも同じ土俵だしまぜてええええ!」なんて割ってはいるような

そういう人間なわけでもない。

あくまでも清い川流れる場所に空き缶を捨てるような輩に対して発動する。

その方が私にとって間違っていないという自分に分があると

深層心理で計算しているのかもしれない。

罵声を使うのなら、相手を言い負かすのなら、

はたから見て間違っていない場所で思い切り言おうとしようとする

そう思うと私こそかなり悪趣味な人間なのかもしれない。