先週はあまねが冬眠から復活したので日暮里でご飯&カラオケ行ってきた。
あまねの今後のことについて色々話したりした。
あまねの瞬発力の良いギャグが毎度ツボに入るので
一緒にいると笑ってばかりで楽しい。
その後は吉祥寺で町田さんのライブを見に行った。
吉祥寺なんらかの用事があるたび思うけど家からめちゃ遠い。
7月のライブの復習を行き帰りでしまくった。
町田さんはいつ見ても町田さんだ。(当たり前だけど)
町田さんが林さんになってたらそれはそれで面白いけど。
この「いつ見ても」というのは
たとえ喉が痛めていてうまく声が出なくても、
熱が出ていて調子が出なくても、
どんな状態でもその町田さんとして私はグッとくると思う。
どんな条件下だとしても零れ落ちない、
失わない核のようなものがあるからだと思う。
それでは、他の人には核はないのか?
核とは、どういうことなのか?
他の人と何が違って自分に響くのかよく言語化できていない。
いつか言語化できたら町田さんに伝えたい。
日常で触れるもののほとんどが特に惹かれないので
良いなと思えるものに対して自分でも「これ気持ち悪いかな…」と
思うような事を言ったりしちゃうんだけど
その度に、三島由紀夫と川端康成の往復書簡を思い出し
三島さんが川端さんに送った手紙が
めちゃくちゃ恥ずかしいラブレターみたいになってるのを見て
「そうだよねリスペクトとしてるとそうなるよね!!!!」と
非常に強く共感したことを思い出し自分を謎に励ます。
私がキャンディスクチュレインに手紙をかけるとしたら
「どれほど私があなたに救われたのか、私を目覚めさせたのか」
みたいなのをめちゃくちゃ情熱的に書く気がする。
記憶力も壊滅的に弱いし心からグッとくるものも少ないんだけど
最近振り返ると自分が心の中に大切にしていた
少ない言葉や人の存在によく触れる。
そして自分の人生はこれらのものに生かされてるといって過言ではないと思う。
自分ひとりで生きているような気もしてたけど
自分が好きで尊敬する人たちによって私は作られ今に至るんだなと感じる。
今身近にいる人たちを、自分が好きな人たちの身も心も豊かになるような
そんな生き方をしていきたいと思う。