自分についての解像度をあげる

多くの人は悪い人間になりたくない。

だから嫌いなものでもなるべく角が立たないようにする。

コミュニケーション上の礼儀としてはそれが正しいように思う。

 

けれど自分の心の中で良い人のフィルターをかけていると

どんどん自分という人間の解像度がぼやける。

自分は明確に何が好きで、明確に何が嫌いなのかがわからなくなってくる。

だからどうでもいいものを置いておく。

好きでもない人と無理して笑って付き合い

好きでもない誘いに無理してのったり

 

自分はお気に入りの料理の何が好きで、

嫌いな食べ物の何が嫌いなのか。

好きな音楽の何が好きで、嫌いな音楽の…映画の、他人の、小説の…などなど

良い人の仮面をつけて生きていると

どんどん自分とはどういう人間かの解像度が下がる。

 

その結果が「自分がよくわからない」になる。

 

私はといえば

長い時間がかかったが

この部分の自分らしさを突き抜けてやっていこうと決めて制作をし始めてから

どんどん苦手だったものがはっきり嫌いなのだと感じるようになった。

「あの知人は私のことが苦手なんだろうな」と思う知人については、

私がそもそもそいつの言動が好きじゃないんだと腑に落ちた。

 

少し前に話題になっていたコラムを見ても全然共感できなかった。

「ほどほどに過ごす」「生きるとは何かみたいなそんなむずい事はめんどい」

「別れた彼女を今も未練がましく思っている俺…」

よくあるこういう類の言葉や作品は総じて嫌いなのだと思った。

前から薄々気づいてはいたが、苦手というより嫌いなのだと明確にした。

 

自分はほどほどよりも振り切りたいし、

生きるとは何かみたいなその著者が言うところの

”めんどい事”を考え続けている人に刺激を受けてきたし、

それを考えない奴は人間として大人としてどうなのかとさえ思う。

別れた彼女を今も未練がましく思う前にお前は他に何かやる事があるだろうがよ、と

ツッコミたくなる。

 

これは自分が望んでいる空気感や美学と

相容れないから好きではないのだと知る。

それでいいのだ。

私がすることを良しとしない人間が当たり前にいるように

自分も良しとしないものが当たり前にある。

 

良しとしないものに直接「俺!お前を!良しとしない!」とは言わない。

それは私の礼儀に反する。

そういう無礼者はしょうもない。

私がどんなに良くないと思っても、

そこには何かの背景や想いがあるのだろうから。

それと私の美学とが違うだけ。

それらを受け入れ、さらに自分の気持ちを明確にしていく。

 

そうすると自分が見ている世界の解像度があがっていく。

自分とはどういう人間なのかの手触りがしっかりする。

近視で乱視の裸眼からコンタクトをつけた時のように

世界はクリアに、綺麗になっていく。

 

見えるものがクリアになると、

いらないものも目につくようになる。

私のように明確にし始めのうちは、

気に入らないものがよく見えてくる。

「なんであいつはあれするんかね!!」

「なんでそんなこと言うんかね!!!」

いにしえの小姑のように心の中で突っ込むのも楽しい。

 

しかしだんだんそんな遊びにも一区切りつけて

自分がありたい空気感や

世界を揃えていく段階に入っていくんだろう。

 

自分が自分を明確にし主張するごとに

合わないものは自然と遠ざかっていき

合うものは近づいてきて共鳴し合い

合うものと合わないものは別々の世界線を生きるようになる。

 

フィルターバブルといわれる世界は

こういう所にも顕著に表れてくるのかもしれない。