一昨日、太腿の筋トレしすぎて2日使いものにならなくなった。
また病院送りになるところだった…
昨日ウォーキングしながら
「なんでやりすぎてしまうんやろうか」
と思ったけど、考えてる途中で
「やりすぎちゃうんじゃなくて、
やりすぎたいんじゃないか…?」という事に気づいた。
先日、手紙2025の限定ラジオで
限界突破の目標を何にしようかとしょへすんと話しあってた時に
しょへすんが「シギは新曲ができたら発表すればいいじゃん?」
と言ったあとで、
私は「そんなのヒリヒリしないからつまらんじゃん。
もっとスリルがないと」と返したことを思い出した。
暴走族かよって自分で思ったけど
やるかやられるか、壊れるか壊れないか
みたいな所に面白さを見出している節はある。
自分の歌も、ただ安定で楽勝に歌えるうたなんてのはつまらなく
自分が全力を振り絞ることに面白さと苦しみを感じている。
快楽は苦痛とセットにならないと得られないものだから
私に「無理しないで」とか「頑張りすぎないで」とかは
私のイメージ的に言われやすいのだけど、
それは私に「気持ちよくならないで」「楽しまないで」
と言っているのと同じなのだ。
一方で私は安寧を愛している。
安寧を愛しているが、安寧を壊すこともたまに求めることがある。
エンタメでよくあることだけれど
そういうアンビバレンス的なものに惹かれる人間は一定数いるだろう。
筋肉を破壊するというのは
筋肉痛は筋肉が作られる過程において大切なことだ。
でもいきすぎるとオーバートレーニングで
全身の倦怠感や免疫力低下に襲われる。
この2日は倦怠感に襲われた!!!!
知人レスラーに「筋トレでめちゃくちゃ痛くなっても
普通に仕事するん?」と聞いたら
「普通のことだから、痛みは気にしない」とのことで
何年も習慣化した人の精神性は違うなと思った。
目先での私のやりたい事のひとつはハンドマイクでのライブで
表現していきたい音楽のドラマ性みたいなものは頭の中に流れ
体がそれらに見合うものになるようにセッティングする
今はその道のりの途中。
とどのつまり私という人間の苦痛というのは
修行僧などのそれとは全然違う種類の
単なる快楽主義的な軽薄なものなのかもしれないという事なのである。
そう思うととたんに自分に対して背負う荷物が軽くなるのである。
全然立派でもなく
自分が求める快に素直なだけの人間なのだなと。