3部作目を作るにあたり、涙と叫を最近よく聴いている。
するといつも君がいて僕がいたでジーンとする。
日常的なのになんて壮大なのだろうと感じる。
この間、君がいて僕がいたを書いていた当時の事を振り返っていた。
2年ちょっと前くらいだろうか。
あの曲を作るきっかけになった人の事も考えていた。
自分の欲から離れたところにある想いが、愛なのだろうと最近は感じる。
自分が得をしたい、損をしたくない、
自分をこう見てほしい、相手にこうしてほしい。
というような私心から離れて相手の幸せを純粋に思える気持ち。
君がいて僕がいたには、その想いが揺るぎなくこめられている。
自分という旅を歩く主人公に代わりはいない。
愛する人が病気になってもかわってあげることができないように、
人は自分の人生を生きることしかできない。
そこで人はひとりきりだと嘆く時もある。
それでも、ひとりで育った人間なんていない。
別々の人生を歩いて来た者同士がある日出会って、
互いの人生で背負ってきたものを自分のことのように想像し、
これから先に起こる困難を時には共に泣き、時には激励する。
そして自分の人生を歩いていく。
傷つけあったり憎しみあったり羨んだりする世の中に、
愛はきっととてもささやかな存在なのかもしれないと思った。
普段は「これが愛だ」なんて思いながらすることでもない行為。
ささやかでいて、
水のように途切れることなくずっと流れ続けているものなのかもしれない。
雪となり、雨となり、川となり、海となり。
人生でも音楽でも、共に歩いて、
共に幸せのためにこれから戦っていきたいと思える人達がいるということは、
きっと私の人生で一番幸せな事なのだと思う。
最近はひとりで黙々と作業する時間が今までにも増して多いけれど、
そんな時にも絶えず心の中に流れる水のせせらぎのようなものを感じる。
確かに、自分ではない人との幸せへ続くための道のりが今なのだと。
愛というのは雲をつかむようななんとなくな感覚でいたけど、
最近はこの考え方が腑に落ちている。