人を傷つける人の気持ちを受け止める。

この頃、このブログで特に書いている「自分自分」という話。

「自分ばっかで社会的なことには無関心でいいんかい?」

という声は別にないんだけど

私は社会的なことのためにもむしろ

「自分を知ること」や「自分と仲良くなる事」

を推し進めたいと思って書いている。

 

被害者でも加害者でもない立場の人が

「差別はよくない」「中傷はよくない」といったところで

それを言う人はまず差別も中傷もしない人だ。

そしてそれに同意する人もまた、差別も中傷もしたりしない。

そのしない人たちの中で「やめよう!」という言葉が行き交うのを見ていると

当事者不在のような気持ちがわいてくる。

差別や中傷をしている本人はどこにいるんだろう。

 

人を傷つけることが快感で仕方がないサイコパス的な人の場合

恐らくそれは好きでやっていることなのでどうにもならないのかもしれない。

 

けれど、自分の生活や環境、自分自身に不満がある人

劣等感から相手を傷つけてやりたいと思う人は、

そこが解決できれば

意図的に人を傷つけたりしなくなるのではないか、と思った。

(意図的にと言ったのは、

無意識や無知から人を傷つけることは誰しもがしてしまうことだから。

今回はわざとやっているという方。)

 

私自身にできることは、

自分がまず無知である事を大前提にして相手の話を聞くこと。

「自分には知らない世界がある」という事が心になければ

被害者が勇気をだして声をあげることや

フェミニストが何度蔑まれても声をあげ続けることに対して

(そもそも私自身も女性でありながらフェミニストが…と他人事のような言い方を

するのにも違和感があるのだけれど、そこはここでは省略。)

「そんなにヒステリックにならなくても」「もっと頼むべき態度があるだろう」と

自分の倫理観やルールで相手をジャッジする、相手を変えようとする言い方になる。

 

 

相手が今までどれだけ苦しんできたか。耐え忍んできたか。

勇気をだし声をあげても

「証拠は?そんな言い方じゃ伝わらないよ?」と言われ

何回も何回も同じことを繰り返し説明してきたか。

 

これはいじめだと想像がしやすい。

いじめられた側が証拠を集め

周りに理解してもらうように言い方に気をつけ

周りの気に障るような態度をすれば理解を得られない。

なぜか苦しんでいる側が媚を売るように低姿勢で理解を求めなければいけない。

その構造自体が対等ではない。

 

なぜこういう状況がうまれるのだろう。

その一つには被害者でも加害者でもない状態の人間が

社会的に限らずある問題を目にした時に

ぱっと見の感想のように自分の考えを述べるだけで終わらせるからだ。

 

「自分の知らない環境、立場の人がいる」という事を前提に

「自分にできることは何か、何が自分は無知だったのか」

という事を前提に話を聞かずに

「私が聞いて判断してあげる」という心持ちがあるからだ。

 

無知・無関心・無寛容。

 

相手の話をまっさらな状態で聞く心の状態がとれない人(自分の経験や思い込みだけで判断しようとする人)は

苦しむ人の怒りをまっすぐな心で受け止めることはできない。

 

「さぁ、本当にかわいそうか俺が見定めてやろう」という姿勢になる。

 

でもこの時に私が考えるのは、

声をあげる人の声を消そうとしている人

つまり被害者が声をあげることを生意気だとかヒステリックだと感じる人は

恐らく自分自身の中に解決しなければいけない課題があるのではないか、という事。

 

そういう人たちによって被害者の声に壁が立ちはだかる。

けれどそこで無理解、無知、無寛容な人を責めるよりも

なぜその人たちはそういう所に落ち着くのかを考える。

 

もしかしたら無理解な人は、理解をされてこなかったかもしれない。

無寛容な人は、人から受け入れられる経験が少なかったのかもしれない。

特に幼少期、親の躾が厳しかったり、誰かと自分を比べられていたり、

そういう劣等感や不満が渦巻く環境で暮らしていたのかもしれない。

 

そういう経験を引きずっている人たちからすると、

自由になろうとする人たち、改善しようとする人たちの勇気ある声や

周りからの励ましが気に入らなく感じる。羨ましく、妬ましい。

そして足を引っ張ろうとする。言い方や態度や証拠や、色々なものを使って。

 

その時に大切なのは、

妬ましいと思ってしまう人が

妬ましいという気持ちを他人に向けずに

自分の人生を改善させる方へ向けてほしいと私は思う。

 

自分の人生を他人がなんとかしてくれることはほとんどない。

それに、どんなに自分が辛い目にあったか、トラウマや引け目をもってるか

そんなことを他人は見てこなかったのでわからない。

自分の歩んできた歴史がわかるのは自分だけだ。

だからこそ、自分の中に渦巻く苦しみや解決できないトラウマを

解放できるほう、解決できる方へ足を向けてほしい。

カウンセリングでも、ネットで調べるでも

自分について書き出しまくるでも、いい。

自分で自分と和解できないままに目を外にやり続けると

いつまでたっても自分の苦しみは変わらない。

その刃が他人に向けば、他人も苦しむことになる。

 

だから自分を知る、自分を愛する、自分に関心を向ける。

それが大切なことだと私は感じている。

これが自然とできている人も多い。

でも特に日本人は親や学校の教育によって

まっさらな自分を見つめられる人が少ないように感じる。

「我慢しなきゃいけない」

「ちゃんとしなきゃいけない」

「自分を出しちゃいけない」

こういう鎖に縛られながら、日常生活を送ることができていても

心の中ではどこかすっきりしない。

虚しさを感じながら生きている人が多いように思う。

 

そういう心を持ちながら他人を優しく受け入れることは難しい。

我慢して親切にしたところで「なんで私ばっかり」と被害者意識も芽生えたりする。

 

誰にとってもまずは「自分」で自分を癒したり満足させてあげられない限りは

他人に優しくできない、他人を理解することも難しい。

両手にたくさんの荷物を持ちながら、他の人の荷物を持つことはできない。

 

そういう劣等感や虚しさや余裕のなさから人を傷つけてしまう人にたいして

「人を傷つけてはいけません!」と頭ごなしに否定するだけでは

根本的な解決にはならないような気がしている。

苦しむ人への理解と共に

傷つけてしまう人の心理を理解しようと考える事も

大切なのではないか。

 

なぜなら、私もあなたも

いつ自分が被害者になり、加害者になるかわからないから。

わからない以上は、どちらの気持ちも理解しようと学ぶことが大切だ。

わからないなら、その経験をした人を見つめる、声に耳を傾ける。

 

「もっと自分を大事にしていい。

いや、むしろそうした方がいいし、そうしないとだめよ。

それはわがままなことじゃないのよ」くらいに社会自体が寛容になって、

多くの人の心に余裕が生まれれば

辛い境遇に立たされている人への理解や改善も進むのではないか、

そう私は思っている。