仮面を脱いだ人の告白

これを読む時に私はもうこの世にいないでしょう…

ではなくて

これを軽い気持ちで読み始めるには

あまりにも長文なため

トイレの中や時間潰しがてら読んで頂けたらと思います。

 

特殊な経験も多少しましたが

私は表面的にはいたって普通の環境で育ちました。

というのも、

どんな環境で育ったら

こんな歌詞が書けるの!?と

昔言われる事がよくあったからです。

ここ一年近く過去を振り返る事も多く

その寄せられた疑問についても考えました。

 

どこにでもあるような家庭と

幼少期は昔ではよくあるような

厳しくヒステリックで理不尽な教師達のもとで

空気の読める良い子として

量産されても害のないような人をなぞるようにして

生きてきました。

人の好ましい時の表情や

機嫌を損なう事はどんなことなのか

幼稚園児の頃から大人の顔をよくみて

生きてきました。

そのため

そんなに人を煩わせるようなことは

してこなかったけれど

何を考えているのかも

きっとわからない子供だったでしょう。

自分でも自分がわからなくなっている事が多かったです。

私は私として生まれたのにも関わらず

私を生きていなかったからです。

子供の頃から悲しい物語や激しい物語が好きでした。

もちろん温かいものも優しいものも好きですが。

 

一番好きな物語は

悲しい世界の中を懸命に生き、

愛する人への想いを貫く物語です。

量産型でおかしくなくいるために

自分の気持ちをいくらか日常で殺しましたが

そのために枠からはみ出た人

私のように信念を曲げて人に従う人間の真逆で

信念をもって生きて死ぬ人に憧れました。

 

歌をうたっていると

自分をもっていてすごいといわれる事もたまにありますが

全然そんな事はなかったのです。

自分を守るために叫びながらも

片方で私が求める正解とは…人に嫌な顔をされないという

事でもありました。

人を遠ざけるために大声をだしたり

人を惹きつけるために大声をだしたり

それでいながら人を求め、自分の体裁を気にしたり

その矛盾はひどく私を悩ませました。

つい去年までです。

きっといくらかこの先も味わう時がくるでしょう。

 

世間と私の天秤をうまくとらねばと思いました。

しかし私はその天秤の限界をなんとなく感じていました。

自分ではじめた歌でさえ

誰かの顔色を伺っている。

自分でシギらしさをなぞっている。

その顔色を伺っていた誰かの正体は、つい最近わかりました。

しかし対人関係から逃れられない以上

こういう事が起きるのは自然な事であるかもしれませんが

子供の頃の仮面が身についたままだった分

そして時間をかけて新たにどんどん被さっていった分、

これを超えなければ私は私としていられないような

そんな気持ちがしました。

 

私の音楽を広めたいといってくれる人が現れても

私はいつもどこかで

「これは違う、これではないんだ、まだこれではなくて」

と後ろめたいようなものを感じていて

物事を積極的に進める事ができませんでした。

やりたいのにうまくできない自分に対して、

やる気がないのかと悩んだり責めたこともありましたが

きっと自分の心の奥が

「もうずっと見ないふりをしていた、

見たくなかった事を直視して認めないと

自分として生きた作品はつくれないよ」と

いっていたんだと思います。

 

そして少しずつ自分の過去をシ組のブログで話したり

過去の恨み辛みを身近な人に正直に打ち明けていくうちに

最初は傷口を開く辛い作業ではありましたが

だんだんと、過去の出来事を盾にして

自分が自分をさらけださないでいるだけなのでは、と

思うようになりました。

なぜなら私は、その仮面をつけるに至った原因となった人々を

全く恨んでいないからです。

恨みをかうほどの事は誰からもされておらず

ただ私の感受性が人よりも少し敏感だったことと

勇気が足りなかっただけなのです。

そう思うと同時に、こうも思いました。

私が私でいることと、

他人が求める(正確にいうと求められているような気がする)私で

いること、どちらに価値があるのだろう。

自分という確かな気持ちと、

不確かで変動する空気のようにつかみ所のないもの。

 

ここから上をはみ出たら人を不快にさせるという加減。

昔からあった掟。セオリー。

深く考えることもない人が

なんとなく良いと歓迎することに沿うこと。

誰も背負わせていない、

私が勝手に背負っていた荷物を

私の手でズタズタに壊して捨てることが

より深い私の創作に繋がるのではないか。

そんな私を見て見たい。

見て見たいから見せてくれ。

まずはこのことを歌にしよう。

そこで私が私の過去に対する復讐と慰みが終わる。

私の現実と理想についての作品をつくろう。

自分でいることすら難しいと感じるこの世界において

過酷な世界で強く生きる人の姿を。

そう生きられなかった私だから、決意をこめて。

そんな物語を、私は私に見せてもらおう。

 

という気持ちにいたり、

過去の曲は今後のライブでやる予定は今ありません。

納得がいったとき、やるでしょう。

これからはこれから作る曲を中心に活動をします。

9月はバンドでいきたかったのですが

制作の都合でシギとしょうへいの2人体制でのぞみます。

おそらく蛹が羽化する手前くらいでの

お届けになるかもしれませんが

それもそれでリアルな今だと思うので

今できる精一杯をやります。

 

私はずっと寂しさを抱えて生きていた

今もそういう節があるのだけれど

寂しさの正体の半分は、

きっと自分を認めて抱きしめてあげられなかったから

なのだろうと思います。

自分に受け入れてもらえなかった過去の自分が

あの時本当はああしたかった

本当はああ言いたかった

もっと自分に認めて欲しかった

と自分に訴えているような気持ちになりました。

私はそれを申し訳なく思ったと同時に

これから先はできなかったこと、

やりたかったこと、かっこいいこと、

ふざけたこと、大変なこと、

悩んででもやりたいこと、失敗も含めて

全部、全部私は私にやってあげたい。

去年の秋頃から少しずつそういう心境が芽生え出し

そいつと向き合って葛藤して今に至ります。

ライブや作品を出せていなくて

止まっているように見えますが

自分の気持ちと向き合って今制作をしています。

嘘をついて音楽はしてこなかったので

さして周囲からしたら変わらない楽曲かもしれませんが

私の中では自分を見つめ生まれ変わったような

新しい気持ちでのスタートです。

活動はもう暫く地味なものになりますが

9月を皮切りに、みなさんにお見せできるようにしていきます。

このような状態でもシ組のメンバーでいてくれている方や

シギの音楽を何年たっても聴いてくれる方

ブログを見にきてくれる方には本当に感謝しています。

本当にありがとう。

シ組では最高にふざけたことを思いついてしまい、

やりたいことたくさんあるので形にしていきたいです。

これからも宜しくお願いします!