関心を自分に向ける。

人生は有限で

そこからどんどん狭めていくと1日の時間は有限で、

自分が使えるエネルギー(精神的、肉体的体力)も有限。

 

今、やりたいことが最低でも4つある。

その4つが細かい枝葉になっていてもっと分かれる。

そうなると、時間が足りない!

 

でもその時間って、物理的な時間だけではない。

エネルギーを使うのにも有限だと感じると

どこに自分のエネルギーを使うか、という事も整理したくなる。

 

最近、より思うようになってきた。

「人を見る時間が多すぎる!」ということ。

これはネットの良きでもあり悪しきでもある。

 

自分が「なるほどなー!たしかにー!」と思える面白い情報は引き続き欲しい。

人がいるから、自分が知れる。人がいるから知らないを知れる。

 

でもネットを見ていると

SNSの人の呟きや

ニュースについてのコメント欄などもなんとなーくの流れで見る。

 

人は思う心が存在する限り、そういうコメントについて色々思ったりするものだ。

「確かにそうだな」「めちゃくちゃ偉そうだなこいつ」

「そこまで言うかね」「ふーん」など、

自然といろんな気持ちが湧き上がってくる。

これはもう仕方がないものだ。

そしてそれは無意識にでも他人を自分の価値観でジャッジしているという事になる。

 

人のことを裁く言葉がネットには溢れている。

自分の価値観という法律の名の元に。

その人の部分的な事だけを拾い上げて、断片しか知らないのに

決めつけようとする。

自分は裁く側で、裁かれる側だと思っていない。

けれどその渦中に参加している限り、

発言している全ての人が読み手により裁かれてる可能性がある。

言葉を話すというのはそういう事で、そこから逃れることはできない。

そして無意識でも人をジャッジしてる時というのは

関心がその人に向かっていて、自分の使うエネルギーもその人に向かっている

という事だ。

 

私は今、そこから外れる時間を多くしたいなと思っている。

自分の興味のあることに集中するために

人のジャッジにエネルギーを使うのを極力減らしたい。

0にはできないと思うけど減らすための工夫はできる。

それは目にする機会を物理的に減らすこと。

ニュースのコメント欄は全く見ないとか

自分ですることはコントロールできる。

人の意見を目にして心で相手をジャッジする不毛な時間を減らして

代わりにそのエネルギーを自分がクリエイトする所に注ぎ込む。

 

ニュースを目にした時、おかしいだろと思うことがあればおかしいだろと言う。

そこは無理に無にしない。

自分の心で感じたこと、

世間で何が起こっているか、そういうのは知りたいし感じたい。

けれどそのニュースを誰がどう思ったかまで知る必要はない。

そこを知って「いやいやそうでもねえよ」とか「その通りだな」などと

心を動かして(なおかつ時間も使って)一体何になっただろう。

そう思い返すと、なんにもなってない。

だったらそこの時間を減らして

ジャッジしようとする心の負荷もなくして

自分のことに集中した方が、よっぽど何かになりそう。

それは肉体作りかもしれない、音楽制作かもしれない、

料理かも、他の制作かもしれない。

ぼーっと無になる時間かもしれない。

単純に「面白くないものは見ない。

面白いことをやる。を実践してみたい。

 

 

という感じで、「自分の心を余計な場所で消耗しない」という行動をすることで

重しをひとつ減らし、軽やかになってみる生活を送ってみようと思う。