うごめくもの

今日は昼過ぎからデザインについての話し合い。

 

絵画や映画のポスターを見たりしたとき

どんなものなら立ち止まるのか

さらにそこから心が動くものはどんなものか

改めて自分の中にある「好き」を意識した。

 

漠然と「これが好き」という気持ちで留まっていたもの。

好きには必ず訳がある。

好きを注意深く観察して言語化することで

なぜ自分がそれに惹かれているのか

より自分を知ることができる。

 

私はやはりという感じで

視覚的なものに関しても

惹かれているものの9割は人間が存在しているものだった。

その中でも共通点としては

静的な悲しみというよりは

悲しみや怒りや色々な交々としたものが

エネルギーとしてうごめいているようなものに惹かれる。

 

それは私の心の中と共鳴するからだろう。

自分の中のエネルギーの強さを感じるからだろう。

それを抑え込む日々。

大きな声を出すことがエネルギーを解放する唯一の手段だった。

しかし今、それは私の武器でもあるのだけど

もっと表現を磨きたい。その武器を武器たらしめるために。

磨きたい。

自分の手で意識的に作っていきたい。

 

自分が表現するものと自分が惹かれるものとの間に繋がる線。

 

自分自身や

自分が見ているものに対する解像度をあげていくこと

これが私にとっては思った以上に大切だと感じている。

人生のどうしようもなさを見つめる

ドライブマイカーを滑り込みで見に行った。

日本の映画(韓国陣営もかなり関わっていたけれど)の本気を見た。

作品の濃度に対して忠実に真摯になったことの結果なのだろう。

個性とは出すものではなくて

そのものを理解し研ぎ澄ませて努力を怠らなければ

自ずと輝き出すものなのだろう。

この作品は

人生の中にあるどうしようもなさや

やるせなさを感じたことのある人間ならば

きっと背中に手を置いて無言で励ましてくれるような存在になるだろう。

感動させて泣かそうとしていないからこそ

映画を見た後に

自分の中から自然とこみあげるものがあった。

こみあげるか否かは

観客のそれぞれに委ねられるのだろう。

そう思うとなんと誠実なのだろう。

作り手が読み手をコントロールしようとしない。

そんな当たり前の礼儀でさえ

犯してしまうことが普通にある。

去年の終わりごろから色々ありすぎた

私という人生において

見えない手で抱擁されるような気持ちになった。

それは慰みというよりも

私には励ましに思えた。

自分を見捨てたく無いと君が思うとき

いつでも僕は君に賛同するよ

とある老夫婦の一幕。

お腹が空いていたので

手紙の物語を書くのとランチをしにサイゼへ。

 

途中から老夫婦が斜め左に来たのだけど

最初は2人で仲睦まじくメニューを選んでいて

良いなと思っていたんだけど。

 

作業しているとその男性の声で

「だから昭和天皇はだめなんだよ!!」といってるのが耳に入り

私は「令和のサイゼでダメ出しされる昭和天皇って・・・」と

まるちゃんぽく突っ込んでいたのだけど。

 

その後でその男性が一緒にいる女性に対しても

「ちゃんと店員の話を聞かなきゃだめだろ!」とか

「こうしなきゃだめだろ!」みたいにかなり上から目線で

指図するように話していて。

 

相手の女性は

「あら、そおだったの?」みたいに終始穏やかに対応していたんだけど

私は心の中で彼女に

「もしあなたがよかったら代わりにそいつの頭引っ叩きましょうか」

など思ったりした。

まあ、お二人がよければそれでよいのだけど。。

 

こういう全く関係ない他人同士の会話に心の中で仲間入りするのも

ファミレスや喫茶店などの醍醐味のひとつである。

悲しみはなぜこんなにも美しい

切実な声に私の心が共鳴する

君がこの世界のどこにいても

私の心が君の声をキャッチする

国境も 性別も 年齢も

ここにはなんの壁もない