保護中: 君は絶望のなかで戦士になるvol.02

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繰り返すことで体に入る

手紙2025の2回目の歌入れを何回も繰り返ししている。

私の歌唱の癖として後ろにいきやすいところがある。(もたるということ)

演歌がわかりやすい。

今後歌っていきたいやつはその癖が出ると

気持ち悪いくらいもたった印象が出てしまうので

BPMというリズムを刻む音を出しながら

オンタイムで歌えるように何回も繰り返し歌っている。

自分の強みは出すべきとこで出してこそで

歌という慣れたものの中にも苦手や新しく挑戦できることがあると

やっていて出来ないことにワクワクしてくる。

 

そういえば心理学の勉強も復習ばかりになって

筋トレも回数をこなしているので

最近繰り返すことが多い。

大谷選手だって井上選手だってトレーニングは基本の繰り返しだろうから

これはなかなか地味なものの中にある誇らしさなのかもしれないなと思ったりした。

 

太もももだいぶ元に戻ったので内容は抑えずに再開する!

曇っても太陽はそこにある

心が形作るその頃

刃物のように冷たくて尖っていて

それでいて誰よりも温かい

あの音にくるまれて眠っていた

.

私の居場所はその音の中にあった

自分の承認のためにある偽物の優しい音ではない

心の底からのほんとうの音以外はいらない

.

あの時の気持ちを

未だにずっと持ち続けている

未だにずっと愛し続けている

その音にくるまれ眠っていた記憶

私の血の中に存在する

その血がついた筆で描く私の言葉

私はその言葉を

生きることを使い果たすために歌う

.

あの臆病者め

お前もそのために生きてきたはずだろう

繊細だから仕方がないと

私は慰めたりなんかしない

何を迷う事なんてあるものか

くだらないトンネルに入りやがって

出口の光が見えない、じゃない

お前自身がお前の光だろ

せいぜい飽きるまで膝を抱えているのが良い

お前が歌わなくたって私は歌う

夜を越え

届かない想い?それでも何も構わない

触れることもなく

見つめ合うこともない

.

届かない想い?それでも何も構わない

君の声ならいつでも聴こえる

君が幸せならその幸せの種類について

何も問わない

.

ルール違反?それでも構わない

この心は風のように吹き荒び

留まることを知らない

誰にも捕まえさせない

.

君が生きているから僕は輝ける

僕は駆け抜ける

君の瞳に向かって

苦痛のない快楽など快楽ではない。

一昨日、太腿の筋トレしすぎて2日使いものにならなくなった。

また病院送りになるところだった…

昨日ウォーキングしながら

「なんでやりすぎてしまうんやろうか」

と思ったけど、考えてる途中で

「やりすぎちゃうんじゃなくて、

やりすぎたいんじゃないか…?」という事に気づいた。

 

先日、手紙2025の限定ラジオで

限界突破の目標を何にしようかとしょへすんと話しあってた時に

しょへすんが「シギは新曲ができたら発表すればいいじゃん?」

と言ったあとで、

私は「そんなのヒリヒリしないからつまらんじゃん。

もっとスリルがないと」と返したことを思い出した。

暴走族かよって自分で思ったけど

やるかやられるか、壊れるか壊れないか

みたいな所に面白さを見出している節はある。

自分の歌も、ただ安定で楽勝に歌えるうたなんてのはつまらなく

自分が全力を振り絞ることに面白さと苦しみを感じている。

快楽は苦痛とセットにならないと得られないものだから

私に「無理しないで」とか「頑張りすぎないで」とかは

私のイメージ的に言われやすいのだけど、

それは私に「気持ちよくならないで」「楽しまないで」

と言っているのと同じなのだ。

 

一方で私は安寧を愛している。

安寧を愛しているが、安寧を壊すこともたまに求めることがある。

エンタメでよくあることだけれど

そういうアンビバレンス的なものに惹かれる人間は一定数いるだろう。

 

筋肉を破壊するというのは

筋肉痛は筋肉が作られる過程において大切なことだ。

でもいきすぎるとオーバートレーニングで

全身の倦怠感や免疫力低下に襲われる。

この2日は倦怠感に襲われた!!!!

 

知人レスラーに「筋トレでめちゃくちゃ痛くなっても

普通に仕事するん?」と聞いたら

「普通のことだから、痛みは気にしない」とのことで

何年も習慣化した人の精神性は違うなと思った。

 

目先での私のやりたい事のひとつはハンドマイクでのライブで

表現していきたい音楽のドラマ性みたいなものは頭の中に流れ

体がそれらに見合うものになるようにセッティングする

今はその道のりの途中。

 

とどのつまり私という人間の苦痛というのは

修行僧などのそれとは全然違う種類の

単なる快楽主義的な軽薄なものなのかもしれないという事なのである。

そう思うととたんに自分に対して背負う荷物が軽くなるのである。

全然立派でもなく

自分が求める快に素直なだけの人間なのだなと。