界王拳10倍でのぞむスタジオ

先週はかなり忙しく出歩いていた。

土日は疲労オブ疲労を癒すためにかなり省エネモードで生きた。

 

先週はドラマーのこうちゃんと初めてスタジオに入った。

 


ドラムが入ったスタジオはめちゃ久しぶりだったけど

疲れも合間ってかめちゃ爆音に聴こえて目が覚めた。笑

そうだったドラムがいるといつも歌ってるのの

何倍も力を出して歌っていたのを思い出した。

 

準備してる時はこうちゃんとしょへのやってる

ハードコアバンドeventdayの話をしたり

ライブハウスの話などに花を咲かせた。

こうちゃんはしょへのバンドが昔から好きみたいで

働いてたスタジオとかで布教していたり

復活したライブも全部行ってたみたいだった。

 

元々、私とは同級生のもときの紹介で知り合って

スタンスパンクスのドラムを叩いてるということで

もときのバンドメンバーとみんなで行ったのが良い思い出。

(懐かしい。スタパンのライブに見に行った時)

今こうちゃんは175Rでも叩いてるみたいだ。

しょへすんとこうちゃんは昔から知っていたみたいで

一緒にスタジオに入るの不思議だねみたいな話をしていた。

 

初回のスタジオはちょっと機材不備などがあり

満足いくドラムを叩けなかったと思うけど

それでも久しぶりのドラムありで

向き合って歌う私の心の中は

なぜかセッションを想像していたよ。

 

7月のテストライブが楽しみだ。

化学変化

本当に自分が形にしたいものとはどんなものなのだろうか。

なぜ、それをするのか。なぜ、私がするのだろうか。

どうして、それをした方が良いと思うのだろうか。

そのために、何を変える必要があるのか。

 

1日しょへすんとアレンジしていて

思っていた以上の良いアレンジに突入した。

始めてから6時間後で良い場所に差し掛かった。

こういう事があるからすごく面白いなと思う。

想像外の所に辿り着くこと(想像の範疇よりも良くなる)。

 

昨日はしげちゃまも混ぜてスタジオに入った。

アレンジとか個人の作業とかで地味な時間が多いので

大きな声を出したり人と楽しい時間を過ごせるとすごく癒される…。

このメリハリ具合が今ちょうどよいバランスな気がしている。

本当はもう少し色んな人と出会いたいんだけど

誰に会うにしても今は自分が作っているものを形にしていかないことには

何かの化学変化も起きようがないので

今はグッとこらえてそこに集中している。

 

 

 

自分が形にしていきたい世界観や形態の力添えを一緒にしてくれる

感謝に溢れているこの頃。

アレンジもそうだし、楽器を鳴らし合うのもそうで

その人と私だからこその化学変化みたいな

そういうところに人間としてとか、音楽としての面白さを感じる。

言葉の刃物で切り付ける奴を切り付ける

私が怒りを感じる時は大体似ている。

 

自分のことではあまり怒らない。

ややこしい人や失礼や無礼な人が現れたとしても

怒りよりも先に相手の存在を消してしまうので(ミュートなりなんなり)

蚊を外に出したくらいの感覚でいる。

(心の中では思い切り罵倒してはいる。)

 

私が好んで見ているyoutubeがいくつかある。

基本的には穏やかで平和な空気が流れているが

ごくごくまれに私の目に意地悪なコメントが入ってくる。

そのコメントは何の学びにもならないただの意地の悪いコメントだ。

 

例えば、

「何を言ってるのかサッパリわかんない(てへぺろんみたいな顔文字を添えて)」

みたいな低俗なものや

「あなたみたいにヘラヘラしながら話してる人は社会の害悪だ。

社会の役に立ってる人間は眠らずに苦労しているんだ。」

みたいな訳わからないものもあった。

 

私は基本的にあまりSNSでもコメントしないのだが

こういう時は黙っていない。

大体私が見ているチャンネルは

大人しそうな女性がやっているチャンネルで

見てる人コメントをする人も控えめなタイプの人が多そうな印象がある。

 

だからか失礼千万な奴のコメントに何も言わない。

それはスルーして大事にしないという意思表示かもしれないけれど

私は自分がチャンネル主だった場合に

いつも良いコメントをくれる人

がみんなその失礼なコメントを無視していたら

少し切ない感情に襲われると思う。

誰も味方をしてくれないような気持ちになると思う。

でもきっと優しく控えめな人が多いから触れないのだろう。

 

だが私はそういう空気はあえて読まないので突っ込んでいく。

「何を言ってるのかサッパリわかんない(てへぺろんみたいな顔文字を添えて)」

みたいな奴に対しては同じような態度で

「あんたの頭じゃ理解できないか(てへぺろんみたいな顔文字を添えて)」

みたいな返答を、

「あなたみたいにヘラヘラしながら話してる人は社会の害悪だ。

社会の役に立ってる人間は眠らずに苦労しているんだ。」

という訳わからん難癖をつけるやつに対しては

「人の役に立とうと動画をあげてくれる人の心を折ろうとする

お前の言動こそが社会の害悪だ」

と書く。

 

外でもそうだけど、私はこういう時べつに怒ってはいない。

むしろこの高まりをどこか楽しんでいる。

日常ではなかなか味わえないイベントだからだ。

 

世のため人のために自分の好きなことで頑張ろうという

そういう清い川のような存在の

清い気持ちに空き缶を投げつけて汚そうとする存在を見ると

ぶっ飛ばさずにはいられない。

 

私の口撃はめんどくさいと思う。

理論詰めとアウトレイジが混ざったようなタイプなので

それによって若い頃はイラッとすることを言う人に対して

100倍返しして傷つけて泣かせたこともあって

そこからあまり自分が思い切り思ったことを話さないようにしようと

なるべく優しいを心がけ刃物を納めていたんだけれど

最近この刃物の使い所を知った。

 

「馬鹿とハサミは使いよう」というのは、

まさにどっちも自分のことだなと思う。

一見短所な部分も場所によっては使える。

 

ちなみに、こういう時に仲介に入ろうとする人はあまり好きではない。

お前は同じ阿呆のくせして何を穏便にすませようと思っとんねん。

祭りじゃぞこれは。お前も踊れよ。という気持ちだ。

 

「同じ土俵にあがったら負け」理論の人とも話が合わない。

そもそも相手がどんなうざい奴だとしても人間という観点において

私たちは全員同じ土俵で対等だと思っている。

それに対して「自分の方があいつよりはマシだ」という優劣の姿勢が

「同じ土俵にあがったら負け」理論の人には感じ取れる。

私は清い人の心に空き缶を投げつけて汚す奴を許さないが

そいつより自分が優れているとはみじんも思わない。

同じ人間だと思っている。

同じ人間としてお前はそれでいいのかと思うから言いにいく。

 

 

とはいえ私だってそこらへんの通りで喧嘩が起こった時に

「わたしもわたしも同じ土俵だしまぜてええええ!」なんて割ってはいるような

そういう人間なわけでもない。

あくまでも清い川流れる場所に空き缶を捨てるような輩に対して発動する。

その方が私にとって間違っていないという自分に分があると

深層心理で計算しているのかもしれない。

罵声を使うのなら、相手を言い負かすのなら、

はたから見て間違っていない場所で思い切り言おうとしようとする

そう思うと私こそかなり悪趣味な人間なのかもしれない。

世界の重ちゃま

7月のテスト(というより実験でもある)ライブに向けて

スタジオに入ったり練習したり。

世界の重ちゃんは(時と場合で色んな呼び方になってきている)、

いつも良いと思ったことを素直に言葉にしてくれるのがとても嬉しい。

 

メンバー間ってあんまり言葉にしないことも多いけど

「あの曲すごい良い!ここがすごい良い!」みたいにわざわざ言葉にして

言ってくれるって作り手にとってはすごく嬉しい。

ギリギリでうまく歯車がまわってないときも

それを前提としていてくれるのですごく助かる。

 

最初に越谷で共演して、その後飲みに行ってお互いの色んな話をして

はじまりから私はなんとなくだけど

魂が人にあるとするのなら

重田さんの魂はきっと綺麗だろうなと感じていた。

魂が綺麗だろうなと感じる人って、そんなには出会わない。

 

だから一緒に演奏できたらいいなと思った。

シンガーソングライターだからそれぞれの世界と思っていたけど

その思い込みをしょへすんの「重田さんにギター頼もうよ!」という一言で

崩してくれてしょへすんに感謝だ。

 

とにかく私もしょへすんも、

(今までのメンバーもすごく好きだし嫌なことなんてないのは前提として)

一緒に音楽をやるのは人が良いと感じられるのが本当に大事だよね、

という話をよくしている。経験値、実績、能力第一主義じゃなく。

 

今までの資本主義的競争社会にありがちな

自分の価値になるから使うとか、

ストレスで血反吐吐いても勝ちにいくみたいな

そんな先にある勝利って実はすごく貧しくて虚しい場所なんじゃないかって思う。

そろそろ社会に生きる人もそういう事に気がついていって

自分にフィットした、本当に自分が求める将来像とは?自分の役割とは?

みたいなものにシフトしている人も増えているような気もする。

 

なので我々も、戦争みたいな勝つだ負けるだの

競争社会的ありかたではないありかたで結果を出す

その一例みたいになれたらいいなと思う。

 

経験値や実績や能力ではないとは言ったけれど

とはいえ世界の重ちゃまは我々よりギターが上手なのだけど。笑

 

昨日久しぶりにひろの夢を見て、

天国のひろもきっと重ちゃまがギターに入って喜んでいるよねって思った。

見守っていてね。

ひろが羨ましくなるくらいのシギの世界を作らなきゃね。

 

そんなこんなで7月に初めてライブハウスで音を出し合う我々!

今からドキドキワクワクだ。

そして近々、もうひとりチームシギに助太刀してくれる方が…います!

君はおさえられない

スタジオの近くにサンマルクカフェがある。

この間、待ち時間があったので寄ると

わりと広めの席の3割くらいが埋まっている感じだった。

 

静かな空間の中でパソコンを広げて作業をしていると

いきなり机を思い切り何かで叩いたような音が響き渡る。

「なんじゃなんじゃ!?」と思い音がする方を見ると

大人の腰くらいはある縦長で大きなリュックと

ボストンバックを置いた青年がゲームをしていて

そのゲーム機を叩きつけた音だった。

 

そして青年は叩きつけた勢いで舌打ちをして

思い切り振り返って外に出ていこうとした。

すると私の座っていた席の反対側の椅子に青年の体が当たり

その椅子が私の机にぶつかり飲んでいた紅茶が大きく揺れた。

青年はそのまま出て行った。

 

そこから数分して戻ってくると、またゲーム機を手にした。

その後は舌打ちしたり叩きつけたりの繰り返しだった。

 

こいつやべえ奴だと身の危険を感じた人は

早々に怪訝な顔をしながら席を立った。

 

私を含めた数人の「おもしれー奴」勢はそのまま座っていた。

 

感情を抑えづらい特性も存在するから

そういう特性を持っている人なのか

それとも単純にイライラしまくっているのか

なぜそんな大きな荷物を2つ持っているのか

色々なイメージが浮かぶ人だった。

 

私はこういう感情を抑えられない人が嫌いじゃない。

(身近には絶対に置いておきたくないが)

むしろ興味深い。

社会的な仮面を被れる人間だったらしない行為を

生身のようなヒリヒリとした感情が剥き出しにされた時に

社会性を持った人たちがピンと張り詰めた空気感を出すのが面白いし

その空気感を出しながらもその場に居続けるのも良いし

その場に居続けることで異様な存在感を放つ人も

この社会の中に結局は抱かれているのだ、と感じると

なんとも言えないがなんだか良い気分になる。

多様性ってこういうことだよね、

異質な存在がいてもいいってこういうことなんだろうなと思う。

その反面、私を含む異質ではない存在たちは

誰にも迷惑はかけていないが

なんだか能面のような居ても居なくても記憶に残らない存在のようにも感じる。

 

このデコボコしている、うまく収まらないような空間が嫌いではない。

私が喫茶店が好きな、それもどこにでもあるチェーン店の喫茶店が好きなのは

こういう理由もあるかもしれない。

社会の枠組みからはみ出た存在と、それをスルーしようか受け止めようか

去ろうか迷う人の存在を見て体感することができる。

人間色々あって、それがいいっていうのは、こういう場面に表れると思う。

 

青年は怒りに任せてゲーム機を叩きつける。

良いな。壊れもせず、君が持っているのはなんて頑丈な機械だ。

すごいな、日本の技術というものかねこれは。

君は、そのゲームを作り出した人たちの世界観に没頭し、

そして踊らされているが、楽しんでいる。

怒りがわくほどに、楽しんでいる。

良い空間だった。