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私の中で「この人は良いなぁ信頼できるなぁ」と

思える人のポイントに

「同性でリスペクトしている人がいる」というのがある。

一緒に何かをする人達は男女問わずこれに該当している。

 

 

これは私の個人的な感想なのだけど

同性を尊敬できる人というのは

心が自然体で開いている印象を受ける。

今の自分という存在を高く見積もることも

低く見積もることもしていないというか

(もちろん落ち込むこととかはあるだろうけど)

「素でいる」という感覚。

 

シギを好きになってくれる女性も

ひとりひとりの人間性はもちろんだけど

同性を好きになれる応援できるという点においても

素晴らしいなぁと思うし信頼もしている。

特にシ組に参加してくれる女性陣には

尊敬すると同時に、すごいなぁと思う。

同性で良いなぁと思う人がいたとしても

ファンクラブに入るって本当にすごいと思うし

そういうアクションを自分の意思でとれることが

本当に素敵だなぁと思う。

 

そして最近発見したことがあって

同性で尊敬したり好きになる人というのは

「自分が元々持っている要素の延長線にある」

という場合が多いということを実感している。(現在データを集め中)

 

シ組のラジオで話したのだけど

私の場合だと中性的でエネルギッシュで

意思のある女性に惹かれる。

そして私のことを好いてくれる女性も

私が上にあげたような特徴を持つ方もいるし

見た目に中性的じゃなかったとしても

心の中が熱かったり意思が強かったりする女性ばかりで

そして私自身もその部類に入ってると認識している。

 

これを気づいた時に

「憧れや好きって自分にない部分を持つ人かと思ってた!」と

驚いたと同時にとても面白かった。

 

そしてこれは非常に健康的なことだなあと感じた。

というのも、「自分という存在」があって

「憧れる存在」が自分と似た香りがするのだとしたら

それは自分自身を認めているのと同じなのではないかと思った。

自分という存在をもっとブーストしたいということだから。

 

同性で憧れがいないとか抵抗感やライバル心が強いという人が

悪いかというとそういうことを言いたいわけではない。

そのような人の中には

ひとつには純粋に人の存在を多く知らないだけという情報不足がありそう

もうひとつには自分自身の良さに気づいていないということがありそう。

決して悪いというわけでも、劣っているというわけでもない。

他者が見ると「あの人のあそこ素敵だわねえ」と思ってても

当人は自分という存在が近過ぎて気づいていないか

それを大したことだと思ってない場合もありそうだ。

自分の良さを感じられていないと、自信もなくなるのは自然な流れで。

 

異性より親和性のある同性に対して

自信のない心を自然と防衛するという意味での

負けたくない気持ちや抵抗感がでるのかもしれないなあと

思ったりした。

異性は自分と違う部分がある分

そういう抵抗感はわきづらい気がする。

「まぁ自分とは違うからね」と思えるから。(正確にいうと同性も違うのだが

親和性という点で似ている部類にいれている。)

とはいえこれはただ私が勝手に頭で思い浮かべたことを

つらつら並べているだけのものなので

当たっているかどうかは定かではない。

 

同じ時を

強い想いは超えられるだろうか

ここを

手を伸ばせば届く場所まで

私は走っていけるでしょうか

あなたの言葉に背を押されても

あなたは遥か遠く

眩しさに目を瞑らず

立ち止まらず

想いを胸に抱き締めて

ひとつずつ乗り越えていく

自分に優しくすることは、人に優しくすること。

自分の身近にいる人に

どれだけ優しくできるだろうかと

最近よく思っている。

 

もちろん私も人間なので

「この人はちょっと濁りを感じるな」とか

「ちょっと偉そうだな、傲慢さがいやだな」と感じる人は

知人でも身内でも距離を置くようにしている。

誰をそばに置いて誰と離れるかということは

想像してる以上に自分の心に影響を及ぼしているから。

 

それはちょっと置いといて

「私の身近」という言葉には

私の音楽を好きでいてくれる人たちの存在も含まれている。

 

私の元には「辛かった」という内容や

「今まさに辛い」という内容のメッセージを送ってくれる方がいる。

何通もやりとりすることはないのだけど

「あなたの話を聞いたよ」という想いを届けるという意味合いで

一通は必ず返すようにしている。

ここ最近もいくつか、そういう言葉が届いていた。

 

辛い内容の告白というのは

短い文章で終わらない場合も多いので

その全部をしっかり読んで、相手の背景を想像してから

自分の言葉で返す(これもなかなか短文にはならない)というのは

まあまあ心を使うことだし、時間もそれなりにかかる。

なので私自身が制作中の時や考え事があるときなどは

何週間か返事が遅れてしまうこともある。

 

それでも体力気力がそこに使える余裕がある間は

続けていきたいと思う。

 

孤独な気持ちや、悩み事を抱えているときに

話ができる場所、それを受け止めてくれる場所があるというのは

解決できるかどうか以上に大切なことのように感じる。

 

私もつい最近、困りごとがあって

行政やNPOなどいくつかの場所に相談したのだけど

どこも真剣に相談に乗ってくれた。

結果的に解決に繋がったかといわれるとそうでもないのだけど

それでもこの社会には話を受け止めてくれる場所が用意されていると

知っただけでも私の心はいくらか救われたし発見にもなった。

(ぞんざいに扱われて傷ついた経験がある方もいるかもしれない。)

 

受け止めてもらえるというのは

自分以外の人が存在してるから起こること。

そういう経験をすると

「自分ひとりでがんばらなくてもいいんだな」と思えるし、

それは周りの人に対しても「自分ひとりでがんばらなくても

何かあったら話してね」という眼差しを向けることができる。

 

こういう経験をする前から私はひとつひとつに返事をしていた訳だけど

それもこれも、心というものを大事にして音楽をしているからだという事が大きい。

私は自分のやっていることと、自分が言ってること、自分が思っていることには

なるべくギャップや嘘がないようにしたいと思って過ごしている。

 

「あなたが大切です」と口で言っておきながら

「実は利用したいだけなんだけどね」と心で思っていたら

それは相手に嘘をついてる以上に

自分自身に嘘をついていることになる。

自分に嘘をついてることが増えれば増えるほど

自分というものを見失うことに繋がると思っている。

自分に誠実に生きるとは

相手に誠実に生きるということに繋がるのではないかな。

 

私の中では相手がどんな人かに関係なく

私に声をかけてくる人があれば、相手の話は聞く。

私は私の都合で生きているので

返事の時間やその後も返事を繰り返すかなどは

私のコントロール下で判断するけれど

とにかく最初は必ず聞くと決めている。

それは相手をぞんざいに扱わないという決め事が自分の中にあるからで

それは自分をぞんざいに扱ってないからこそできる事だと思っている。

 

そして「自分に優しく生きることが大切なんだな」

「自分の声を本当に大事にしてあげることが大切なんだな」

と最近は特にそう思い、気にかけているので

自然と今まで以上に

いかに目の前にいる相手に優しくすることができるだろう

という想いに繋がっている。

 

それでもたまに人と話していると

「どうしてこの人はそんな冷たいことを言うんだろう」とか

「薄情な人だなあ」と感じるときがある。

けれどそういう人は、自分自身に対してそういう扱いをしているから

他者に対してもそういう扱いになるのだろうなと思うようにしている。

そうすると幾分か哀れみの目線で見ることができる。

「自分に冷たく薄情に生きるのはさぞかし生き辛いだろうなあ」と。

ここで哀れみではなく相手を責めるようなジャッジをしていると

自分の気持ちもざわざわすることに繋がる。

 

自分が他者に対してする行為や思うことは

ひごろ自分が自分に対してしている行為とも思うし、

他者にしたことはそのまま自分に返ってくるとも思っている。

 

だからなるべく濁った気持ちをもたないように気を付けている。

怒りひとつとっても

私の中では濁った怒りと、濁っていない怒りとに分かれる。

それをこの気持ちはどちらなのかを毎回見分ける。

 

でも生きてれば何度でも濁るものを持つ。

昨日もモヤッとした気持ちを抱いた。

それはそれとして事実なので受け止める。

完璧じゃないのでそういうのは何度でも出てくる。

でも大事なのは。出てきた後に自分がどうあるかということだ。

それをそのまま表現してしまうのか

それともそれを鎮めるのか。

私は最近は後者を選ぶようにしている。

それが私のやりたいことではないから。

 

ありたい自分、あるべき自分、望む自分でいたいと思うとき

目の前にやってきたことをどう返すのか

そういうことのひとつひとつを

自分の中で見極めてからアクションしたい。

 

周りのことをコントロールすることや避けきることはできない。

けれど、その影響を受けたあとに

そこから自分がどうあるかを選択することは自分で出来る。

そこにもっと意識的に生きていきたいと思うこの頃。

今をどう使うか

足りないことを数えるよりも

今あることを見つめていよう

終わったことを嘆くことより

今できることをはじめよう

まだ見ぬ未来を恐れるより

今できることを積み重ねよう

ピンチに助けてくれる人。

中高大の頃、私は皆無といっていいほど男友達がいなかった。

中学の頃からライブハウスに行っていたため

自分よりも年が上の男性と接することが多くて

同い年の男性と何を話せばいいかわからなかったのが大きい。

 

そんな私が中学の頃に授業を受けていると

間違えて携帯の音が鳴る仕様になってしまっていて

着信音が鳴ってしまったのだ。

 

学校に持っていくのは禁止されていて

見つかったら没収のため

「やべー終わったあああああ!!!!」と思ったら

私の着信音に気づいた男子生徒のひとりが

「あー!!おっほん!!おっほん!!!」と咳払いのようなものをして

周りの男子生徒も続いて「あーあ!!」と大きなあくびをしたり

なんと周りの男子生徒が先生にバレないように

大きな声を出してごまかしてくれたのだ。

 

さいわい先生は近くにいなかったこともあって

「???なんだおまえら???」みたいな感じでバレずに

ことなきを得たことがある。

 

普段全く話したりしないのに助けてくれて

あの時は神様仏様男子生徒様に見えてすごく嬉しかった。

 

なぜか今日そのことを思い出して心がほっこりした。

そのかばってくれた人たちの名前も顔もほぼ覚えてないくらい

その後も交流がなかったわけなんだけど

何十年も経てもちょっと面白くてそして嬉しく温かくなる思い出を

作ってくれたあの人たちには感謝だなぁと思った。

みんなが幸せに暮らしていますように。