ふかく ふかく ぼくらのきもち
そこのほうで からみあった
カーテンのすきまからはいるひかりで
くらいかべが しらけだす
テーブルに きのう はしゃいだ
おさけの瓶が よこたわる
カーテンも しらけたかべも おさけの瓶も
いまはしずかに ねむってる
ふざけた ニュースがとおりすぎる
コツコツと サラリーマンがとおりすぎる
まだ夢のなか こどもたち
息をとめたら じかんもとまるかな
きみをながめるぼく
するするじかんは すぎるけど
つめたくてあつい きみのえねるぎい
いまはぜんぶ ぼくの中
ふかく ふかく ぼくらのきもち
そこのほうで からみあった
カーテンのすきまからはいるひかりで
くらいかべが しらけだす
テーブルに きのう はしゃいだ
おさけの瓶が よこたわる
カーテンも しらけたかべも おさけの瓶も
いまはしずかに ねむってる
ふざけた ニュースがとおりすぎる
コツコツと サラリーマンがとおりすぎる
まだ夢のなか こどもたち
息をとめたら じかんもとまるかな
きみをながめるぼく
するするじかんは すぎるけど
つめたくてあつい きみのえねるぎい
いまはぜんぶ ぼくの中
「緊急事態宣言が終わったら会おうね」
そんな何気ない約束をした後で
約束とか、会うとかって素晴らしいなあと
ひとりで歩いている時に思った。
ZOOMやLINEやSYNCROOMを使って
会えないのに顔を見れたり声が聞けたりできるのって
コロナ渦において人の気持ちを救ったと思う。
音楽やってる人にとってはSYNCROOMは音合わせの場にもなるし
私も打ち合わせで使っている。無料で出来るのがすごい。
それをしているからこそなおさらに
直接会う約束をするって特別な感じがして心が温まる。
電車賃とかガソリン代とか使って
移動してわざわざ顔を見にいく。
自分も相手もそうしてお互いの話を聞くために
同じ場所に行くというのがロマンに感じる。
コロナ前だとそんな当たり前だった出来事が
すごい尊いものに感じた。
本来は尊いものなんだろうな。
私はひとりで歩いていると
外に出た時にする季節の香り
飛んだり鳴く鳥を眺めたり
川に魚や鳥がいないか眺めたり
雲とか青空とか夕焼けを見ているのがすごく好きで
部屋にいても
洗濯物が風になびいていたり
植物に日が当たっていると
気持ち良くて幸せな気持ちになる。
ひとりでゆっくり周りを感じて幸せを味わう時間があると
人と話したり顔を見たりすることの幸せも倍増するんだなぁと
感じている。
お金で買える面白さや幸せもたくさんあるけど
お金がいらない面白さや幸せもたくさんある。
いろんな種類の幸せを満喫していきたい。
自分が何かを達成したい、頑張りたいと気合をいれて邁進する幸せと
今ここにある自然をじっくりと味わう幸せ。
人に会って顔を見ながら話し合って笑い合う幸せ。
幸せって色んな種類がある。
行き詰まったような感覚がするときって情報不足な事が多い。
自分の手持ちの駒や感覚だけで生み出そうとしている感というか。
私はずっと答えを求めて生きてきたような感じが自分にあるんだけど
最近は答えよりも問いが大事なのかもしれないという感覚がしてきている。
答えというのはその時や人や状況次第で変わってしまうもので
今私が「そうだこういう事だったんだわかったぞ!」と思う事があっても
それが一年後も同じことを答えにしているかどうかと言われると
そうではないことの方が多い。
それは常に色んな外部の情報に触れたり
経験によってアップデートされていくから。
その時その時で何かを形にしていく必要がある以上
その時の自分なりの答えのようなものを見つけようとしたり形にする必要がある。
けれどそれも必ず風化したり変化するものなんだなという感覚と一緒にある。
答えとしていつまでも変わらないのは
きっと自分を自分たらしめていた本質的な軸の部分だったりするのかなと
(例えば私だと音楽を作る時にどんな曲においても変わらない部分があったりとか)
それ以外はどんどんアップデートして変化していくものなんだなって。
変化や外部からの刺激っていうのは
自分が整っていないと非常にしんどいもので
そもそも人間は変化や進化は避ける生き物なので
意識が高いような感覚やめんどくさいと思うこともあるんだけど
それでもそんな自分を整えて余裕を持たせたりすると
現状維持を暇に感じてくる。
変化や進化や外部からの刺激というのは積極的に取り入れたいなと
バスタオルを取り込む時に冬の空気を吸いながら思った。
それってめんどくさいよな、別に何もしなくていいじゃんって
思う時もあるんだけど、そういう思いも一過性だったりするってわかっている。
時間は止まらない。
物も人も時間と共に見た目や考え方も変わっていく。
だから変わるということほど自然なものはないなと思う。
答えを見つけるために生きているような感覚から
問いを大切に生きていく方角へシフトしていっている。
その先に何があるのかは今はわからない。
でも、問いっていうのは全ての人に使えるものだ。
私が見つけた答えは「今の」「私にとって」のものだけだけど
問いはいろんな人の心に投げかけることができる。
みんな自分のことを知りたがっている。
自分のその先の道を知りたがっている。
自分が大事なんだから、当たり前のことだ。
誰かの答えを真似するより
誰かに答えを押し付けられるより
問いかけの中から自分を見つけられる方が
自然な流れだなと思う。
ついつい楽して答えを見つけたがるんだけど
それはもしかしたらなんでもぐぐれるからかもしれない。
でも自分が何が幸せかっていうことって
ぐぐったって出てこない。
私が今、問いというものに注目しているのは
私の中だけで終わらないような気がしているから。
私の答えは私の中だけで終わるけれど
問いは誰かの心に投げかけられ
波紋が広がっていって
問いを受け取った人が自分の心を掴むことの
きっかけになる可能性もある。
それはとても素敵な可能性だ。
来週のシ組ラジオをとった。
私の偏愛記録ということで
無理やりに育て上げた徒長しまくりのシソちゃんの話をした。
最初の段階から育ちがいまいちで
おそらく見切られるタイプなんだろうなと思いつつ
捨てるのがかわいそうなので育てた。
夏に収穫時期なのに収穫できる枚数まで育ってない。
その後、何枚か楽しんだけれど
秋に花が咲くのに花も咲かない!
摘芯もしなかったため1mくらいひょろひょろ伸びる。
私は自分でいじくるのが苦手なのだと感じた。
自然に育つものにハサミをいれることに抵抗がすごい。
最後までどう成長するのか見たくなってしまう。
夜にみると横に伸びた部分が手にみえてお化けのようにみえる。
さながらデストロイアの集合体のような姿になった。
そして寒くて枯れる時期に暖房で育て
晴れた時には日光浴をさせていたら。。。
花が咲きだしたああああああああ!!!!!
冬の底に花が咲く・・・。
遅咲きとはこのこと。。。
出来が悪い子ほど可愛いとは良いますが
育ちの悪い子ほど可愛いことをシソで痛感。
そんな偏愛記録をラジオでたっぷりお話しした。