光と闇は抱き合う

すべてのものが必ずどこかで繋がるのだろう

何も心配はいらないよ

何かをするから価値のある人間なのではない

生きていることに価値も無価値もない

人間の作った尺度に捕まらないように

植物や動物と同じように存在を続ける

命が終わる瞬間。

昨日テレビでタイタニック号についてやっていた。

映画は見ていたけど子供の頃だったのでうる覚え。

ワクワクしながら乗った船が沈没するというのは

まさに天国から地獄。

女性と子供を優先に救助ボートに乗せられる。

夫婦で来ていた場合は、男性だけ離される。

「妻が生きててくれるなら私はいいんだ」

そう言う夫の気持ちを拒んで一緒に終わらせる道を選んだ老夫婦がいた。

 

何十年と寄り添いあった命。

自分だけが生き残ったとして何年そのあと生きられるだろうか。

愛する人のいない日々を。

 

私もその状況だったら一緒に終わる道を選ぶだろうな。

自分が助かるとしてもその状況でひとり置いていけないな。

究極の場面だからこそ人の偽りのないない強さや愛を感じるけれど

それ以上に辛い出来事だった。

どれだけ怖かっただろう。

あなたは何をするために地球にきたのですか。

そんな言葉を見かけた。

 

人が持つ可能性や希望を開く

その役割を果たしていくために

この世界に生まれてきました。

 

そんな言葉が出てきた。

 

音楽を作る時や歌う時は

私が持っている自分の可能性を使う

という気持ちでやっている事が多い。

 

自分の可能性は自分が作ったものというよりも

私の親やそのまた親から受け継いだ遺伝や資質のようなもの。

自分が受け継いだものを磨いて使って

人の救いや可能性や愛に繋がること

それに命を使っていこうと思った。

 

今までの葛藤や孤独の歌を隣に寄り添わせながら

希望と願いを出していく歌をうたおうと思った。

私の本来の役割はそこにあるのかもしれないと感じた。

 

誰も好んで不幸になるわけではない。

誰も好んで犠牲になるわけではない。

誰も好んで孤独になるわけではない。

 

 

好まざる場所に落とされた人を引き上げるのも人だ。

誰もがいつそこに落ちるかもわからない。

落ちたのが恥なのではない。落ちた人が弱いのでもない。

人が落ちる穴を作る人間が恥なのだ。そこに抗い声をあげる。

 

綺麗な事ばかりは言ってられない。

けれど絶望ばかりを歌うこともしない。

現実は絶妙なバランスの中にある。善か悪かではない。

人を落とす穴を作る人間にも家族がいる。

けれど人としてやってはいけないことは存在する。

たとえそれが法律に引っかからなくても。

人を憎まず、罪深い行為に声をあげる。

 

 

この世は生きるに値する世界だということを

諦めたくはない。どんな事が起きても。

 

 

私の命や体は両親やご先祖様から受け継ぎ、頂いたものだ。

それはいつか無くなり、返す日がくる。

それまでの間は音や言葉を書き続ける。

そんなことしか私にはできないけれど

それが私にできることなのだから、していくよりほかはない。

 

終わりがくるまで役割を果たすと決めた。

音楽も言葉もネットがあることで

ありがたい事に長く残ることだろう。

自分にできることをする。

 

まだ見ぬ願いや想いを同じくする人と出会っていったり

再会していったりして

その力を広げていきたい。

 

この世界を少しでも良くしていきたいと願う人と共に。

人間の世界は人間が作っていくものだから。

 

君はなにをするために生まれたんだ。

君の命を存分に発揮させてくれ。その心の声の赴くままに。

思い切りよく生きてやろうじゃないか。それを楽しもう。

私の愛

飼っているうさぎをみていて、私が思う愛の形を考えた。

 

私の家のうさぎは春がきたら12歳になる。超高齢うさぎだ。

牧草を食べなくなって何年も経つが無理にあげないで食べたいものをあげてきた。

歯のカットが必要になるので、1ヶ月半に1度歯をカットしにいく。

全身麻酔をかけたりするので2万近くしてお財布が断末魔の叫び声をあげるのだけど

歯が伸びて食欲を無くすと命に関わるので連れて行く。

最近は夜中にご飯を食べるようになり1日に2,3回起きてご飯をあげている。

 

動物を飼うっていうのは本当に楽じゃない。

1回の病院代でうさぎの本体価格を超えている。

夜中でもご飯をあげたり、食欲がない時は数時間ごとに強制給餌したり。

それでも自分が好きで飼ったことなので、何かがあれば全力で面倒を見る。

それは自分が後悔しないためでもある。

 

そして普段私はうさぎにあまり触れない。

たまになでなでする以外は放っておいてる。

好きに動けるように小屋を二つつけて広くしている。

基本的にのびのびと好き勝手に過ごしてもらう。

これが長生きした秘訣なのかもしれないと思っている。

 

これは私が好ましいと思っている愛の形なのかもしれない。

干渉されたりコントロールされるのが好きではないので

身近な人や動物や植物にも干渉しすぎない。

必要なこと以外は見守っている。

 

恋愛は恋しい気持ちや不安や嫉妬など、様々な気持ちになる。

ロマンスに浸かりドーパミンが流れて。

うだつのあがらない自分、不満のある自分をごまかせる。

でもそれは愛ではない。自分のための愛でもない。

悪い酒と同じでごまかすために使うようなもの。

酔っている時はいいけれど

シラフになると途端に自分の人生が自分に突きつけられる。

 

 

 

自分の人生は自分に用意されている。

その自分の命を使って、自分が心動かされるものをしていく。

立派な事をする必要はない。意識なんて高くなくていい。

自分の気持ちから目を逸らさないことが大切だ。

目を逸らす時期があったって構わない。

けれどなるべくなら気がすんだあとに戻ってきてほしい。

気持ちが晴れないまま生きていくのは辛いことだからだ。

 

愛の存在がすごいのはきっとひとりでは出せない力を出せるからかもしれない。

愛するものがあると人は守りに入るようになるというけど

私はあまりそう思わない。

愛は守らなければ壊れてしまうものではないと思う。

何かを維持しようと執着するから守ろうという気持ちがわくのだ。

維持しようと執着する場ではなく、安心して旅立てるような場になった方がいい。

 

こう書くと菩薩のような人に見えるかもしれないけど

私がそう思うに至るまでには不安や嫉妬やロマンに渦巻く恋愛を重ねたからだ。

それを繰り返した末に

愛とは自分の快楽やごまかしの場ではないのだということを

身近な人から身近なペットから思うに至った。

 

安らげる場所がある時、安心して人は自分の持っている力を発揮できる。

どちらかひとりだけが安心するのではなく

お互いが安らげると、お互いが人生の力を出したい場面で力を出せる。

その人の条件がどうとか、その人が何を持ってるかとかはどうでもいい。

ただその人がその人でいるだけで、価値がある。

全てのものが本来そうなのだ。存在しているだけでいいのだ。

やりたいことがあればやるのがいいし、ないならやらなくていいのだ。

別にやりたいことがある人生が素晴らしいわけでもすごいわけでもない。

 

互いを見守りながら、自分の人生のやりたいことをやること。

コントロールしたり口を出したりしない。

何かあれば全力で力を渡すこと。

そういうところが、私にとっての身近なものに対する愛なのかもなと思った。

 

白菜君に感謝

白菜をまるまるひとたま購入し初めてのキムチ作り。

↑これはヤンニョムというキムチの素みたい。そこも手作り。

白菜も投入してここから最低三日はお眠りです。

 

まず白菜をひとたま切るのがしんどかった。

あとその量のものをいれるボールとかザルとかなかったので大変だった。

そして漬けたりの待ち時間が長くて合計で六時間はかかった。

なかなかのボリューミーな作業だったんだけど

無添加保存料なしで自家製で作れるって嬉しい。

美味しかったらまた作っちゃうかも。食べるのが楽しみ!