初七日と物言わぬものの逞しさ

めるちに綺麗なお花をいただく。

今日は初七日なので、めるちの好きなりんごジュースをお供え。

美味しくいただく。

これからめるちの節目の時にはりんごジュースを飲むとしよう。

 

我が家には植物がいるのでそのお世話もするんだけど

忙しいと全体に丁寧にお世話ができないときもある。

 

我が家にはアロマティカスという植物がいて

前に植物を買った時におまけでついていたのでいまだに一緒にいる。

こういうやつ。

 

でこいつの葉っぱが風かなんかでとれて、地面に落ちていた。

葉っぱについてた小さな茎が地面の方を向けて落ちていて、

私はあんまり気にしないでその植物に水をあげていた。

今日その植物をよくよく見ていると、地面に落ちた葉っぱが

地面に根っこを生やし出してちょっと大きくなっていてびっくりした。

放置してる間に別の成長をはじめている植物がいるとは…

生命の力ってすごい。

 

廃墟みたいに人がいなくなった場所に

植物がもっさり生えている場所もある。

植物は本当にたくましい存在だな。

痛み(刺激)を感じると他の植物に信号をだしたりもするらしい。

黙っているから大人しく踏み潰されたりすることも少なくないかもしれないけど

うるさくないものの中にある神秘性や逞しさを感じたい。

 

私がよく喋ったり笑ったり家でひとりでもするからか

めるちゃんをはじめ亀ちゃんや植物など

我が家は静かなものに溢れている。

それが私には居心地が良い。

ものを発さないものが何を欲しているかを知ることは難しい。

でも長年一緒にいると何が欲しいのかも少しわかってくる。

表情が変わらなくても体調の悪さもなんとなくわかってくる。

長年一緒にいてよく見ていれば、言葉はあまりいらなくなるのかもしれない。

わからないものを理解しようとする姿勢みたいなものを

こうして私は生活から学んでいるのかもしれない。

「悲しみを引きずりながら歩くのではなく区切りをつけて歩き出すことにした」

私と一緒に住んでいたうさぎのめるちゃんが大往生しました。

そのことで感じた数日間のことPart2

2:22 リスペクトする人の存在は困った時ほど良いお守りになる

3:28「 区切りをつける=気持ちに嘘をつく」は違うと思う

4:52 自然に湧いた気持ちを肯定しすぎると何が怖いか

6:00 自分のこの先の幸福のために悲しみを手放した

7:54 落ち込みが続かないのは短時間で思い切り落ち込みきるからかも

11:07 介護は片手がバトンでずっと塞がれてるような状態みたいだった

13:30 寂しさと開放感の相反する気持ちを抱いている

16:24 仏教の「この世は地獄」と「生きるは修行」は本当良い世界設定だよな

18:24 感情の首根っこをつかむ自分に対するリスペクトも抱いたりする

「どうしようもない悲しみをどうする」

https://open.spotify.com/episode/0tDgzanjK7d3CWQVTRHItU?si=X24RrE3ITx6h93Y7UhsX4A

私と一緒に住んでいたうさぎのめるちゃんが15歳で大往生しました。

そのことで感じた数日間のことPart1

3:02 年始からすごいお別れが来た…

12:26 愛と喪失は隣合わせというこの世の修行…

16:00 悲しみの中で中村天風の本を読んだ

16:40 悲しみは感じても良いけれどいつまでも握り締めるな

19:00 ありのままの感情のままでいることの危うさ

 

集団心理とオリジナリティ

日曜日に久しぶりにはま寿司に行った。

日曜日だし夕飯時だから

混んでるかな〜と思ったらガラガラだった。

明日から仕事始めなのと、

年末年始で多くの人がお寿司食べたからじゃないかと予想。

 

休日の夕飯時にお寿司屋さんに訪れる人の数はすごい人だと思う。

それがタイミングによっては休日の夕飯時でもガラガラというのは

すごい人の数が一斉にいつもとは別の行動や似た感情を持った結果ということで

こういう集団で働いている心理って面白いなと思う。

 

いつだか日本ではクリスマスはケンタッキーの広告で

クリスマス=ケンタッキーになったみたいに

年末年始とはいえ別に寿司を食べなきゃいけないという決まりはないし

クリスマスにはピザと寿司の組み合わせもよく見た。

「なんとなくこういうものを摂取するのがイベント的に普通」という

なんとなくの出来事に大量の人が流れていく。

 

心理学的には同調効果(みんなと同じだと安心する心の動き)とか

バンドワゴン効果(みんなが支持してる方を支持する)みたいに言われるやつ。

 

バンドワゴンの逆は、スノッブ効果。

みんなが良いっていってるものなんて、俺興味ないもんね。ってやつ。

自分はみんなとは違う、オリジナリティがあると感じたい傾向をもつ人の心理。

 

心理は本人や周りが困っていなければ問題ではなく特徴や個性。

正しい間違いではなく、考え方や心の癖の傾向。

心理学を勉強してると、本当のオリジナルの考え方や心の癖なんかほぼなく

ほとんどの人の考え方がすでに過去の人が名付けた何らかの箱に収納される。

 

ではこの世にオリジナリティなものは0なのかと言われると

私はそうでもないんじゃないかと思っていて

真にオリジナルなのはひとりひとりの人間の人生だと思う。

あなたという人生、顔、心、過程、家族関係、思い出、など全てを足した道のりは

唯一無二だから真のオリジナリティといえる。

お寿司食べながらそんなこと思った。

寂しいよおおおおおおおおお

昨日はめるの葬儀場を予約して行った。

 

亡くなった日の夜に葬儀場どこにしようかすごい探して

電話したとこがまじでくそだったのでやめて

しかもその電話した所はいっぱいだから6日以降になると言ってて

他のとこもいっぱいだったらどうしようと色々探しあぐねた。

その後観音様的なのがいて自然豊かな静かな場所か

寺と併設してる人も動物もいる賑やかな場所かで悩んで

めるちは私に似てマイペースで気ままにほっとかれたいタイプと思ったから

静かな方に電話したらすぐ対応してくれて優しく親切な人でよかった。

 

めるちを持ってって安置所に置いてお線香あげたりしたんだけど

そこで面白いことがあって爆笑した。

いつも部屋で過ごしてる賑やかな感じでお別れできてよかった。

葬儀場の担当の人も私より年下の女性で接しやすくてよかった。

今月法要でまたそこへ行くことになった。

 

人と話してると普通なんだけど

ひとりになるとふと思い出したりいきなり涙が出たり

朝まで眠れなかったりして

めちゃくちゃペットロスの症状が出た。

亡くなった当日の夜は葬儀場探しで集中していたから気が紛れてたんだろう。

 

どうやら介護をしてすごいお世話した人ほど

ペットロスになりやすいみたい。

ペットロスについて調べてたんだけど

・後悔や自責の念がある(私がこうしてれば…あの時ああしてたら…)

・自分の所に来なければもっと幸せだったんじゃないか…

などを思う人はペットロスがひどくなりやすいみたいだ。

私はそれを見ていて

「俺は全く後悔も自責もないし、めるちは私のところにきて100000%幸せだったに

違いない」と思っているので重症にはならなさそう。

 

あと亡くなってすぐ心身の症状がでるのはむしろ自然なことで

その時に泣くのを我慢したり知らないふりすると後に響くようだ。

ここも私はひとりで泣きまくるので、大丈夫かもしれない。

 

快方するのに2週間から1ヶ月は平均でかかるみたいなので

いずれ時間が少しずつ癒してくれると思うことにした。

私の場合はただ寂しいっていう気持ちが100%をしめているから

めるの遺毛を供えたりすることで少しずつ整理していけると思う。

 

こういう時、打ち合わせとかあると気が紛れて良い。

昨日もしょへすんと話せたのでだいぶ気が紛れた。

太陽に浴びることとなるべく自炊して栄養のある食べ物とって

軽い運動をし始めようと思う。

 

今心理学の勉強をしていて来月試験の申し込みをしたので

それに没頭するのも良い。

 

眠れない間、

自分が自分のカウンセリングをしたらどんなだろうなとか

そういうのを想像したりした。

心理学の勉強をしているとクライアントの心身も含めた症状について

少しばかりは詳しくなるので

自分の心と体に起こることを自然と冷静に客観視して

これならこうすればこれくらいで普段通りになるかもな、みたいな

見立てをするようになった。

 

冷めてるようだけど、

どこまでいってもこれは”ストレス反応”でしかないので

自分の身にその反応が起きていると思うと

ひどくうろたえることもない。

でもどれだけ専門的なことを勉強したとしても

寂しいいいいいいいい!!!!!!!!

という気持ちに変わりはないのだと知った。

 

寂しいもんは寂しい。

ただこれだけ自分にとって寂しさを感じる対象がいた

ということ自体がものすごい宝なんだなと実感した。

 

めるちは痛みがない世界にいる。

現実を生きる私は痛みの存在する世界にいる。

これもひとつ私が乗り越えるべき修行なんだろう。

ただ修行であると同時に

思い出とめるという存在自体(概念)は

私の一部になったという実感がある。

 

生きている時は自分の一部ではなく個々で存在していたけど

体がこの世からいなくなると

概念(魂や思い出など)が自分の存在の一部としてセットされる

そんな感覚になっている。

形としていない現実の寂しさには襲われるが

巨人軍は永久に不滅ですといった言葉みたいに

私が生きているかぎりめるちの概念は永久に不滅だ。

それはひろも同じ。

 

大切な存在がこの世からいなくなると

本当に寂しいんだけれど

同時に自分が逝くときにその存在が待ってるかもしれないと思うと

死んだ後のことにたいしてネガティブではなくなる。

みんなが行く道で、自分もいつかそこにたどり着くんだな。

それまで、肉体と心がセットされている間に

自分がこの世で何をどれだけ出来るのか

そこに集中して生き抜きたいと思う。

 

めるちがいなくなって

「寂しい」という思いと

「めちゃくちゃ気が楽になって好き放題できる」という

相反する気持ちが心の中に存在する。

この矛盾したものを抱くのはすごく人間ぽいなと思う。

 

そんで、めるちの介護から解放された2025以降は

本当に自分の活動を思いっきりフル解放でやりなさい!!!と

神様のような存在から言われているような気もする。

 

もう当分生きているもののお世話をすることはないだろう。

(かめちゃんと植物はいるけど)

自分がすべきことをするための時間を手加減せず使っていきたい。

そしてその時間がひと段落したら、

困っている動物と暮らすのも悪くないかもしれない。

今は今の自分が決めた役割を駆け抜ける。

先のことは、先の自分に任せる。

2025、しょっぱなから激動なので激動の予感だぜ。