つくるの先に祈るが存在している。

昨日眠る前に、制作脳から離れるために

キリスト教と仏教の共通点と違う点について見ていた。

大学時代にも宗教や思想史についての講義を受けていた。

 

読みながら、日本人だからなのかやはり仏教の方が自然と馴染みがあった。

求道、修行、自らを見つめていくところが仏教の一部だとすると

私が最近感じていることとすごく近しい気がした。

 

前から自分自身について内観したり探るのが好きだったけれど

ここ最近は「自分自身を探る」というフェーズから

「ものづくりの中にある自分」というものについての探求に移っているのを感じる。

 

 

メジャーにいた時に録音方法や歌唱などから学んだこともあるけれど

最近はそれを壊している段階に入ってる。

自分の中で得てきた王道のやり方や当然のあり方みたいなものを壊している。

「守破離」の「破」の部分を実践しているところなのかもしれない。

ここで自分を得ること以外に正道な道はない気がした。(これ頭痛が痛いって言ってる感じになるのかな・・)

 

そして最近ものづくりを毎日コツコツと続けてきてたどり着いた気持ちがある。

それは、どんなものだとしてもつくることは祈りと繋がっているということ。

今までそんなことは意識したこともなかった。

けれど全ての自分の行いが、自分かなにものかへの祈りの行為なのだと感じると

線を一本引くだけの行為に命が宿っている気がしてきた。

ものづくりはなんと神聖な時間なのだろうと感動した。

そうすると自分のものづくりががらっと形が変わるような感覚になった。

不思議と今までの自分の作った作品の色合いすら違う風な色合いで見えてきた。

 

そうか、ここで得た感覚はつくる時だけでなく

受け手の視点としても変わるようなものらしい。

ものをみる、つくるという視点が以前と確実に変わった。

 

今までは「それっぽい感じで」「良い感じで」そういう「感じ」があった。

それでも自分の心が震える感じ、掴まれる感じ、という直感だったのだけど

それよりももっと奥に、そしてより確信をつかんだような感覚がした。

線一本から味わうこと、命をそこから見つけること。

 

そうなると今まで自分が使ってこなかったタイトルを自然と採用したり

余白を嫌がってたキャンバスに思い切り余白を作ってそれをよしとしたり。

「それってこうしないとだめじゃない?」と

自分で自分に言い聞かせてた決まりをガラガラと壊していっている。

ものづくりはこんなに奥が深いもので面白いものだったのか、と改めて思った。

今までの自分のやり方や考え方から抜けるためには

とことんものづくりに集中することが必要だった。

そしてものづくりをしている間に不思議と自分に必要なインプットもやってきた。

それらを並行しながら混ざりあいながら新しい自分がむくむくと生まれてきた。

その先にどんな作品が待つのだろうか。

一生変容なのかもしれない。一生探究なのかもしれない。

愛か恐れか

最近は3つの考え方に軸を置いて物事をみるようにしている。

(今度youtubeのおはなしで話そう)

そのうちの1つがここのブログでもたまに書いているけれど

「愛か恐れか」という考え方。

 

昨日3度目の炎上をしているcakesの

あさのますみさんのnoteを見ていた。

 

今回のことを要約すると

連載が決定していたあさのさんの記事が

あとは掲載するだけといった段階になって

cakes側の都合でお蔵入りになりそうだ、ということ。

連載される予定だった記事の内容は

あさのさんの友人が自死されたことについて

その想いを書きたいとのことだった。

けれど今年に入って2度別件で炎上しているcakes側としては

自死というセンシティブな内容を載せたくないと。

そしたらまた炎上してしまうかもしれない。

載せたいならフィクションってことにしませんか?

というcakes側の提案に動揺とショックをあさのさんは受けた。

 

きちんとした内容が見たい方は

あさのさんのnoteを見てほしい。

 

今日、トレンドに「フルボッコ社会」という言葉があった。

短い間に2度炎上を経験したcakesとしては

3度目はなんとしてでも避けたいと思っていたのだろう。

炎上を経験していないからわからないけれど

フルボッコ社会という通り

1度炎上したらたちまちにボコボコにされる。

その影響を考えての判断だったのだろう。

 

あさのさんのnoteに対して

「自死というセンシティブな話題はどのメディアも

基本的には避けたがるのは当然だ」と言ってる方もいた。

それが今までの常識なのだろう。

これから先がどうかはわからないけれど。

 

今年に入ってから著名な方が立て続けに自死していること

女性の自死が増え続けていること

メディアでの自死の取り扱い方の難しさ

そういう色々な問題が

自死という問題を避けたがる。

それも想像ができるし、わからなくもない。

自死の話を目にすると希死念慮が出てきてしまう方もいる。

その話を載せるにあたり、どんな配慮をする必要があり

どんな影響がでる可能性があるのかを想像する必要がある。

それは一言で言えば面倒なことだと言ってしまえるし

それなら最初から触れなければいい、とする人がいるのもわかる。

 

しかし本当に、避けるだけでいいのだろうか。

避けたがるものを避けているだけではいけないのではないか

例え「そんなセンシティブなのどこも使いたがらんよ」という人がいても

それを必要とする人がいないとは、言い切れない。

影にある声を広げようと戦っている人がいる。

マイノリティとされる話題やその立場にいる人は弱い人なのではない

かわいそうなのではない。戦っている人なのだ。

先日書いたドキュメメントを見ていて

私はそういう思いを強くした。

 

「愛か恐れか」という言葉を眼前に突きつけた時に

cakes側のした行動は「恐れからくる行動」だと感じた。

炎上しそうなものは避ける

センシティブなものは避ける

問題になりそうなものは避ける

それはどんな気持ちから来ているかというと、

恐れからきている。

恐れから身を守りたい、という気持ち。

それは人間の本能的な気持ちでもあると思うから

無くすことはできないし、しなくても良いのだと思う。

企業としてリスクを減らすのは当たり前のことなのだろう。

それでもSDGsの運動からしても分かる通り

この先は自分の企業の利益追及だけではなく

倫理的だったり環境保全だったり

そういうものへの配慮も求められる。

 

 

私自身は自分の中の恐れや迷いを認識したときに

いちいち立ち止まるようにしている。

そして自分に問いかける。

「この行動は愛からきているか、愛へ向かうか。

それとも恐れからきているものなのか。」

もちろん0か100かではないから

愛で選択しても恐れがないとは言えない。

しかしどちらが先頭に、目的に、くるのか。

愛を選ぶためには、信念が必要だ。

そして、信念を生かすためには勇気がいる。

 

 

去年から私が書いていた歌詞は

・大量殺人という罪を犯した人間が抱えていた苦悩

・いじめの被害にあっていた人間が加害者になるまで

こういう歌詞を書いていた。(まだ発表していない。)

友人の自死を文章にすることがセンシティブで避けられるなら

私の歌詞も十分避けられるようなものだろう。

 

しかしここで、その目的はなんなのかを見失いたくない。

目的は、センセーショナルなことを書くことではない。

友人の自死も、いじめも、殺人も、

「行い」という形だけをとれば衝撃的だ。

けれどその行いの中には意味があり、気持ちが存在する。

その気持ちや意味を第三者が見つめ

想像しようとする必要があるのではないか。

それを避けて見た目だけで「センシティブなのでそれはちょっと」としていては

どんどん人間から想像力が失われていくのではないか。

この場合は、想像する場面を奪われている、と言ってもいいかもしれない。

 

想像力の弱い人は、人を簡単に傷つける。

相手の立場など、心境など、イメージできないのだから当然かもしれない。

イメージとは能動的な働きかけだ。育てていく必要がある。

そして加害意識は、私の中にも、あなたの中にも、

誰の中にも眠っている。無自覚に。

だからこそ自分以外のものの体験から、イメージする必要がある。

イメージさせてもらう必要がある。

 

私は「普通の人」といわれる人が避けたがるようなことを歌詞にしたのは

それを衝撃的と捉えられたかったからではない。

これは人間の責任だと思ったからだ。

その責任を私なりに果たすことが歌詞を書くことの目的のひとつだ。

 

自ら死を選ぶ人、犯罪を犯す人、それの犠牲になる人、

その全てが人間という社会の中で行われている以上

加害も被害も人間の中に内包されていて

その生きづらい社会を修正させていくように働きかけるのが

今の時代を生きる人間の責任なのではないか

「加害者」「被害者」という名前がつけられた人達だけの問題にしていては

いけないのではないか、そういう気持ちがしている。

 

人間としての苦悩や罪深さを見つめて歌にすることが

無念さや罪の昇華に繋がるかはわからない。

そんな力は私にはないかもしれない。ないだろう。

それでも、見て見ぬふりをしてはならないと感じている。

この社会の中に生きている人のどんな小さい声でも

その声が苦しいと言っているのなら

その社会に存在している人が耳を傾けなければ

なかったことにされてしまう。

人間にその誠実さがあるだろうか。

私はあると信じたい。人の中にも、自分の中にも。

しかしこの世の中でそれを信じることは易しいことではない。

それでもなかったことにして、平穏を生きることは

私の中の何かが拒絶している。

だから私は避けられるものをも歌にしようと思った。

自分が生きて表現したものに関しては

「これは愛のある選択をした結果なのだ」と

自分自身に思えるものにしたいから、自分を裏切るわけにはいかない。

 

 

生きている目的はなんだろうか

この行いをする意味はなんだろうか

信念はどこにあるのだろうか、どんな形をしているのだろうか。

自問自答する。何度も自問自答する。

 

「その行いは愛か恐れか」

しかし愛は正しさではないとも感じている。

ここを話すとさらに長くなるので割愛するけれど

「正しいか間違いか」ではなく「愛か恐れか」なのだ。

 

cakesとあさのさんのお話から

それは愛なのか恐れなのかを改めて見つめ直す機会になった。

あさのさんの連載される予定だったおはなしが

どんな形でもいつか読むことができ

自死された方のご家族やあさのさんの心に平穏が訪れることを祈って。

この世の病

今日は歌を書いて曲の録音をして

絵を描いたり本を読んだりして過ごした。

冬の澄んだ空気のように凛とした人は

また冬の寒さのような厳しさも身の内にある。

世の中の罪を一心に見つめているからだろうか。

そのものの言葉を見つめていると

他者を見つめているようでいて

自分自身を思い出しているような気がしてくる。

憂うものが冬の美しさに似ているのは

真実をその身に偽わることなく受けているからで

私が夏を好んでいるのは

憂いよりもエネルギーのようなものを

単純に欲しているからなのだろうと思った。

その点で私は幼い。

それが良いか悪いかではなく

その幼さが私の一部としてくっついている。

そういえば昨日心になにか感じたものが

今日すでに歌詞としてでてきたことに驚いた。

やはり考えるより自分の身体は

その身に受けた影響をきちんと咀嚼して

形にして吐き出してくれているらしい。

たまげた。人間はすげえ。

今日はインプットアウトプットして満足しているので眠ろう。

美醜

醜さを知らぬものには知らぬものの美しさがあり

醜さを知るものには知るものの美しさがある

自分を研ぎ澄ませていく。

先日はお墓まいりに行ってきた。

黄色い葉が風がくるたんびに

さらさらと落ちていって綺麗だったな。

布巾でお地蔵さんの右頬から拭くのがいつもの決まり。

不思議と気持ち良さそうに笑ってるようにみえる。

お墓詣り。神社。お地蔵さん。

これといった宗教に傾倒せずとも

不思議とこれらの行為に背筋が伸びるのは

親しみをもつのはなぜだろう。

親のまたその親のまたその親からやってきてることだからだろうか。

心が洗われるような気がする。

その後に図書館で久しぶりに本を借りた。

不思議とその言葉を感じながら

人の罪深さについて謝りたく泣きたくなった。

「世間との訣別のつもりでものを書いた」

その本にはそう書いていた。

自分の心に響くなにかを感じた。

おそらく先月では感じなかったかもしれない。

今だからこそ、と感じた。

人であることのいじらしさと醜さを見つめ続け、自分の中にもそれを感じ続ける。

生き方を変えていきたい、と心の中の自分が言っている。

まだ自分の中で自分の気持ちがよく理解できていないのだけど

ここ最近はなぜか「人間を主軸に置いた生き方からはもう抜けよう」という感覚が胸にある。

それは私が生まれるよりも遥か昔に思いを馳せるようなものなのか。

今はまだわからないけれど

この自分の中にある沈黙の空間を見過ごしたくないという気持ちがある。