友達

ここ数週間ちょっと気合いをいれてやろうかなと思ってたことを

今日やめにすることにした。

今の自分にはちょっと高い壁なのかもなあと感じた。

数段飛ばしたというか。

結構それが良くも悪くもプレッシャーで

もう一個別のプレッシャーがあったので

一個を降ろすことにしたので気が少し楽になったのも事実。

 

ひとりで考えてるとどうしても近視眼的になりがちだな。

今回のことは周りにいてくれる親しい人たちにアドバイスを聞いて

わたしのことをよく知ってる人たちが軒並み

わたしの言ったことに否定的な意見だったので

「あ、こりゃ見直さにゃならんな」と感じた。

 

わたしってどうしても「これをしようか!」って思うと

猪突猛進になりがちな傾向があるので

そんなわたしに対して「あいつに言ってもしょうがねえ」とならずに

ブレーキをかけてくれるのってすごくありがたい。

ある人は「あなたがやりたいならやってみてもいいとおもう!でも。。」と

わたしの気持ちを受け入れたうえで言ってくれたり

ある人は「いや!そんなんやらなくていいとおもうよ!」と

ばっさり気持ち良く言ってくれたり。

なんかそれぞれの良さをそのままで言葉をくれたので

なんだか涙ちょちょぎれそうになった。ちょっとちょちょぎれた。

 

こういう時に長い付き合いの人間がいるってありがたいなあって感じる。

自分の特性を知ってその良し悪しに関わらず付き合ってくれて

率直な意見を言ってくれる。

 

ここは自分を信じるところか

それとも自分に鞭を打ちすぎか甘い部分があるか。

この気持ちはどっちなのかを一歩引いて見られるようになっただけでも

昔よりは1cmくらい成長したかなあ。

でもやっぱひとりで考えると小学生並に純粋な気持ちで

突っ走ろうとしちゃう傾向にあるなー!!!と痛感。

悪いわけじゃないんだけど

ずっとそれだけって頭悪いしな。笑 学びがないというか。

来年くらいには中学生くらいに進級かな。

自分を表現に降ろす。

描いた絵達にグロスバーニッシュを塗る。

結構昔の絵。

くらえ!グロスバーニッシュ!!!!

保護剤のことです。

描いた絵に艶がうまれたよ。つやつや

これから怒涛のグロスバーニッシュ作業に入りつつ

新作ラッシュもする予定。

それをしながら作曲もするよ。

 

アクリルについての調べ物をしていたら

アクリル画を描いてる人のサイトに絵の描き方について

「歴を増すほど、プロになるほど

絵の描き方は技術ではなく精神論にむくそうです」と書いてあった。

いや君も描いてるんちゃうんかーい!と思いつつ

その人ごとな言い方がツボに入りつつ

なるほどなあと思った。

 

昔恩師のひとりである方がわたしの音楽をこう言った。

「シギの音楽はうまいとかちゃんとしてるとかじゃない、

そういう部分じゃないだろ」と。

その意味を心から感じたのはここ最近のことだ。

それってすごく本質的なことだよねーと思った。

その人をその人とならしめているものというのは

案外本人はわからなかったりする。自分のことだから。

周りはそれを教えてあげようとしたりするんだけど

いかんせん自分のことなので半信半疑になったり。

 

わたしの場合は、最近作った新曲をしょへすんに聴かせた時に

あるアメリカのシンガーソングライターの女性の名前を出して

彼女のようなサウンドが浮かんできたといっていた。

前から何度か彼女の名前はしょへすんからおすすめで聞いていたが

わたしにはいまいちピンとこなかった。

けれど再び彼女の名前がでて聴き直しライブを見た時に

彼女を見ることで、自分のことがよくわかった。

シギに何を見ているのかということがよくわかった。

シギが何を持っているのかということがよくわかった。

それは昔から今もずっと変わっていないもので

外側から得たものではなく、周りをみてやろうとすることでもなく

自分の中に存在し続けている原石を純度を高めて出すこと

それこそが大切なことなのだ!と

感じたときに、やはり時間がたつほど

技術論ではなく精神論に向かっていくのだと

絵画のサイトは書いてあったけれど

それは音楽でも同じかもしれないと感じた。

 

評価とか売り上げとか価値とかレベルとか賞賛とか

そんなものではない

時間と共に風化するようなものを求めているのではない。

もっと自分の深くに潜っていった先に

自分の表現というものは何にも傷つけられず

何にも汚されることなく存在しているものなのだと

それを自分がしっかり掴んで地上に持っていくこと。

この時代を表現する歌手になってほしいと言われたこともあった。

それともこのことは繋がっている。

自分は今という世界の中で生きてその出来事を見つめている。

そして心は動いている。大きく動いたその瞬間を逃してはいけない。

その大きく動いた部分こそが

自分の深くに存在している自分からのメッセージなのだ。

自己探求は昔から好きだったけれど

今はそれをしっかり掴んでいかにして作品におろしていくか

その段階に入っている気がしている。

一歩から

これから先のやることを整理したら

想像の5倍くらいやることがあって慄いた。

ここ数日芯から感じていることがある。

それは一番自分が納得のいく道を確実に進むには

ひとつひとつの目の前のことを

集中して味わうようになるべく丁寧に

こなしていくということ。

これより他はないな、と感じた。

それが遠回りなようでいて

実は一番の近道だったりする。

毎日何がしか最近はものを作っている。

頭ばかりを動かしていたあの日々

着実に実感をわかせてから作りたかった。

しかし着実にイメージできるなんてことはないのだ。

作れば必ずイメージとの誤差は生まれる。

生まれなければ面白くない。

狙いにいって作るよりも

作りながら進化させていく方を選ぶ。

料理をするのにも

何作るか決め食材を買いに行き料理をし

食べ終えたら洗い物をして乾かして仕舞う。

この何行程もあるものを地味に毎日繰り返している。

地味なもの 地道なものの繰り返しから

確かなものは芽生えるのかもしれない。

だから一歩ずつ一歩ずつ。

そんなことを感じながら生きるこの頃。

まじやること多すぎぃ!

全てはいずれモノとなり

死んだら肉体はモノになる

カラスもうさぎも魚も人も

生き物ではなくなってモノになる

自分の体がいつかモノになると想像すると

不思議な感覚がする

それが終わりなのかはわからない

生き物が地球の中で生まれては消えてまた生まれていくのなら

自分の命もその循環の一部なのだろう

苦しい死に方はしたくないけれど

命が終わるそれ自体は恐れではないと感じる

それはある意味では自然の流れの一部であって

眠る時に自然と瞼を閉じるように身を委ねて流されていく方がいい気がしている

訳がわからないまま生まれてきて

その泣きながら生まれた記憶さえも忘れてしまうように

命が終わるあとの記憶も持たないのだろうか

生きているとはつくづく不思議だ

社会の理想

 

他者の挑戦を応援すること。

その結果を自分のことのように喜んだり泣いたりできること。

そして応援している人もまた自分の人生を戦っていること。

こういう光景を目の当たりにし

その背景を想像するとき

人間として生まれてよかったと感じる。

昔は人は結局ひとりだと思っていた。

けれどそれは片方では事実であるけれども

片方では見落としがあるということを感じるようになった。

「『雑な生き方』というのは

自分の都合だけで人生の決定をしている生き方だ」

という言葉を今日たまたま見かけた。

自分はひとりで生きているのだと思うとき

それは雑な生き方の中にいるときなのかもしれない。

人間はもっと複雑で、奥深く、いじらしい生き物なのかもしれない。

自分の限界や小ささと自分の中にある複雑さを見つめたときに

確実にひとりで生きてきたわけではないことを知る。

そしてその中で自分の役割を行える喜び。

人の役割を見つめること、支えること、祈る喜び。

人間社会は本来そういう形であるのが理想だと感じる。