雑草という名の草はない

ベビーリーフが虫に食べられていた時

ひとつだけ生き残った草があった。

それをそのまま外に放置していて

一度栄養剤入りの水をあげたら

翌日驚くほど成長していて穂が出ていた。

こいつはなんや!!!!!!

と思ってたのだが、雑草だった。

私の家は三階に位置する高さにあるのだが

ここまでどうやってたねが飛んできて

小さなペットボトルの土に入り込んだのか

謎が深まる。

私は引っこ抜くでもなくそのままにしていて

夏の酷暑の日も大雨や強風の日も

そいつは枯れずに存在している。

たまに暑すぎてかわいそうな時は日陰を作ったり

からっからになってる時は水を与えたりしてたけど

数時間日に当たっただけでも体力が削られて

日焼けで水ぶくれと皮が剥けまくってる私は

そいつに尊敬の目を向けずにはいられない。

雑草ってすごいんだな。。強いな。

そしてそいつの名前が知りたくなったので

調べたら、オヒシバという名前だった。

雑草なんて名前の草はないのか

名前がついていたんだな!と思いつつも

しかしオヒシバも人間が勝手につけた名前だしな。

と思ったりもした。

そして、オヒシバはすごく強い草らしく

アスファルトの隙間からも生えてくるらしい。

そして、オヒシバはイネ科らしい。

イネ科。。。

お前、おれの天敵じゃねえか!!!!!

と思わず突っ込んだけれども(イネ科アレルギー)

まぁ一本くらいなら良いだろうと

そのままそこに存在してもらうことにした。

十月くらいまでの命らしい。

十月までは一緒に過ごそうな!

整えたり新しくしたり。

頼んでいたものが届いた。

ふっふっふ。靴のケアセットー!

わたくし、おはずかしながら実家にいる時は

母が父の靴の手入れをしがてら私のブーツも手入れをしてくれていて。

実家に戻ると靴の手入れをしてくれていたのですが

自分でやってみれるようになろう!と思い

靴の磨き方など調べて購入した次第であります。

楽しかったな〜すごく綺麗になった。

 

今までこういうケアものに本当に疎くて

髪とかも乾かして終了〜巻くのもワックスもめんどくさいそのままー

化粧もほぼしないーって人間だったのですが

靴のケアはやったら気持ちが変わりそうだなって思ったのと

今までの面倒臭いっていうの全部ひっくり返してみようぜってんで

一個一個楽しんで生活をしております。

 

今月はシ組限定ブログには書いたのですが

身につけるものを整えたり新調するというのが

今月のやりたい事のひとつなのです。

ひとつをすでに達成。

明日は美容院に行ってきます。

 

今年は今までと違うことを沢山しまくったなぁ。

違うことをして、学んだり反省したりして

そこから応用させたり

また別の違うことをしたり、の繰り返しの約半年。

そして少しずつ音楽についての姿勢にも

及びだしている。

 

このままいけよ!いけばわかるさー!

の気持ちで毎日を生きております。

おやすみなさーい!

アクションはライブ。

8月も終わりの日。

起きてカーテンのレース部分の洗濯&網戸の掃除をした。

白いレースが風に揺れて乾かされていくのを見ているのが気持ち良かった。

次に天気の良い日にレースじゃないカーテンの方を洗濯。

1年に2回くらいは洗濯した方が良いのだろうか。

 

出かけるまでに時間があったので久しぶりに絵を描いた。

ヒートガンでマーブル作ろうとしたら謎の膜ができて。

イメージしていたのと全然違う見た目になり。

まじかーと思いながらスプーンで膜をとっていると

膜のしたから細かいマーブルが出現して

「これはっ!!!!!!」と宝物を発見した気持ちになり

膜をどけていったりむしろ膜を少し残したりすると

こんなに細かいマーブルになった。想像したより細かい。

この立体で白と青たちが混ざり合う感じ。

ぜひこの画像をクリックして拡大して

色の混ざり合いを感じてほしいところ。

 

海には何種類かの色が混ざっていて

それは人間でいうところの感情のようにみえる。

人間にも色んな側面がある。

青というのは私の中で自分が洗われる

浄化の意味合いが強くて海もそれと地続き。

清濁併せ吞む感。全てが洗われて現れるさま。

 

毎回そうではあるけど

今回特にこの「おもてたんと違う!→いじくる→おもてたんを超えた!」

っていう流れが非常に思うところがありましたねえ。

まずイメージした通りにはならないっていうのは曲にも言えることで

そこで違うからといってやめたらそこで終わりというか。

そこからさらにいじった時に、イメージした通りではないけれど

そこを超えたものが出来上がった。というのは

色んなものづくりに通じて言えることだなと感じた。

それこそが「ライブ」という感じがするな。

ライブってのは言葉の通りステージ上でやるだけではなくて

日常での出来事から作曲から何から何まで

アクションを起こすということ自体がもうすでにライブなのかもな

なんてことを思ったりした。

 

そしてそれを音楽以外の事からものづくりで感じるというのが

私にとってこの時期だからこそ大切な学びのような気がしている。

自分を動かしやすくする。

雑誌編集者の女性が、自分が飽き性な事に悩んでいた。

けれどある日「飽き性だから編集の仕事が向いているんだよ」と言われてから

「飽き性を良い風に生かせばいいんだ、次々にワクワクするものを紹介できるのが

私の良い部分なんだ」と思い直すことが出来て

飽き性をネガティブに捉えなくなった。

という話を聞いた。

 

これは一つの出来事や物事の「解釈を変えた」と私は捉えている。

人は何事も自分の解釈で受け取る。

「私はこういう解釈の仕方をしたんだな」と思うようにすると

「これが私なんだな」と思うよりも方向性を身軽に変えやすい。

 

私も飽き性だったので彼女の言っていることがよくわかった。

私の場合も、「飽き性ではなくて次々に新しいことに挑戦しているだけ。

それでこそあなたが生きる」ということを聞いてから

解釈を変えることができた。

 

そして「自分のこれが嫌だけど、でもそれは良い面もあるから

このままで生かしていこう」と思うと同時に

最近では「自分はこういう面があるけど、それは変えていきたい」と

思うこともありだなと積極的に思えてきた。

 

今まではなんだか「自分に無理をするのはよしたほうがいい」とか

「無理しなきゃできないことはやる必要がない」という

自然体な言葉に惹かれていた。

それもそれで一理あるのだけど

「自分では苦手な一面だけど、それでもやってみたい自分がいる」なら

それはとりあえずやってみた方がいい。

なんでも自分らしさに合わせて行動していると行動の幅が狭まる。

もしかしたら「無理しなきゃ」という言葉が強すぎて

その裏にある「でも本当はやってみたい」「本当は興味がある」という所を

見過ごしてしまっている可能性がある。

 

具体的な話をすると

私は音楽を作るのは自分だけの感覚でいきたい自分と

他者の思想や作り方を知り時世を捉えた上でやっていったほうがいいなと思う自分の

二つの相反する自分が存在していた。

 

あえて後者を「やりたい」ではなく「やっていったほうがいい」と書いた。

これは、自分だけの感覚だと

すぐにネタ切れして同じようなものしかできないという理由から

自分の感覚以外も「やっていったほうがいい」と思っていたから。

 

言ってしまえば「自分だけの感覚」なんてものはそもそもない。

必ずしも人は何かに、誰かに影響を受けているから。

「自分の慣れた感覚」といったほうがいいかもしれない。

 

そして「やっていったほうがいい」というと、私は決まって

イコール面倒くさいにつながる。義務感がでるからだ。

 

しかし面倒臭いのに、なぜかいつまでも私にまとわりついてきた。

「そうしなきゃいけないと思っているからまとわりつくんじゃない」

そう思うこともあったけれど

しかしこれはよくよく自分が求めているものらしい。そんな気配がする。

 

 

「怠惰の先を見てみたい」というのがこの頃の私の願望。

今までやり慣れた生活、やり慣れた作り方、やり慣れた性格に飽きて、

めんどくさいけどめんどくさいと思っているのにも飽きたから

めんどくさいの先に行きたい、と願うようになってきた。

 

だから私は

「やらなきゃ」じゃなくて「やっぱりやりたい!」に解釈を変えた。

 

というのも、今まで通りに飽きたともう一つ理由がある。

私が同じように引っかかってきた言葉がある。

それは「本物」という言葉。

本物というのは人の数だけ解釈の仕方がある。

私は前に「本物を求めて変化に飛び込んでいく人だ」と言われた。

しかしその時に「本物」とは一体なんなのか私の中には浮かばなかった。

それっぽい言葉は並べられても自分の言葉ではなかった。

 

そしてここ数日感じている。

私が思う「本物」という定義は

この「やっぱりやりたい!」と思っているものの中に存在しているような

予感がしている。だからやりたいに解釈を変えることができたのだ。

 

私は自己探求が人生の面白さのひとつだと思っている。

現時点での私が思う本物というのは、

「自分以外のもの(時世、他者の作品や思想、物事の成り立ちや作品以外の物事も)を

自己の一部に取り込み

それを自分の思想やあり方と混ぜ合わせ

自分の作品に昇華させること。

そしてその探求と強い意思を継続し続けること。」

だと思った。

これは今の私にはかなりしっくりいった。

 

そしてこの解釈がしっくり出たことによって

その本物へ続く橋がくっきり見えたような気がしている。

この橋を渡ったからといって自分が本物を手にするかどうかはわからないけれど

(おそらく別の課題が出そうな気がしている、それはなくならない。)

少なくとも今の感覚とは違う境地に達するのではないか、と感じる。

 

「めんどくさー」と私は思いがちだ、と自分に思っていたけれど

別の側面で、知識を吸収して発信することは私の好きなことのひとつだ。

今まで自分が「私はそれをめんどくさい」と思い込ませていたものの中に

「シラフな目でみたらむしろ得意なこと」が隠れていたりする。

それこそ「解釈を変える」ということに繋がる。

 

他者の言葉にも要注意なのだ。

他者が「あなたはこういう人だよ」という決めつけは

他者が思っている「あなた」でしかない。

時に他者の言葉が良い風に解釈を変えるきっかけにもなるが

時にそれは動きづらさに繋がる呪縛になる場合もある。

あまり他人の言葉は鵜呑みしすぎない方が良い。

「他人の感想だな」くらいがちょうどいいし

その中で引っかかる事があったとしたら

自己探求する良いヒントとして使うのがいい。

 

自分の行きたい方角へ自分を舵取りするためには

うまく自分自身を説得力のある言葉で誘導する必要がある。

「確かにそうだな」と腰の重い自分に思わせるのである。

解釈の仕方次第で、自分の心を使いやすくする事ができる。

使いやすくなった心で、行きたい方角へ歩みを進めるんだ。

 

 

ひとつひとつ、明確に。

水に触れた時に、

あ、これは水だ、と認識すること。

風に吹かれた時に、

あ、これは風だ、と認識すること。

 

日に当たり熱くなった肌と水の冷たさの境界線を味わう。

風に吹かれて前髪が揺れてそれが皮膚にあたってくすぐったくなること。

 

水に触れた時に、

「昨日はあんな嫌なことがあったな」と認識していたら

風に触れた時に、

スマホの文字を目にしていたら

 

何を今明確に意識できているのだろう。

行うことの全てが曖昧にぼやけていく。

 

日常の全てが修行だと仏教の教えにあったが

それはひとつひとつを確かに認識することにあるのかもしれない。

集中するということ 研ぎ澄ませるということ

そこから生まれてくる己の感覚に耳を澄ませる。