六月の手紙

この頃の私は

心が洗われるようなもの

センチメンタルになる切ないもの

そういうものを感じる時がとても気持ち良い。

 

外側では色々なことがあるけれど

自分がどうしていきたいとかもあるけど

そういう色々なものをひとまず横に置いといて

山頂についた時に荷物を置いて一息をつくような

そんな時間を愛しんでいる。

 

なので今月は

そういう気持ちになれるものをお届けしたいと思う。

曲は今のところ、切なさを感じられるような

夜景を見ながらひとり歩く時に聴いてほしいような

ひとりで何も見ないでお酒をゆっくり飲む時に聴いてほしいような

そんな曲をお届けしたいと思ってます。

まだ歌詞はできていません。

 

詩とのバランスを考えると

もう少し違うパターンの曲でもいいかなと迷ったりもしてるのですが

あくまでも今の時期にできた曲や言葉というところに焦点をおいて

それをお互いに楽しめる場所にできればと思ってます。

 

七月のお手紙に関しては

現在は定員をこえてしまっているので

空きが出来ましたらBASEやSNSやブログでお知らせします。

君がどう生きるかは他人が否定できることではない

悩んだりもやもやしていると気持ち良くないから

自分がすっきりするような正解が欲しいと思うようになる。

 

正解だと思えるものを見つけると、それを正しいと思いたくなる。

正しいと思いたいのでその正解と合わない意見を目にすると

「間違ってる!あの人はわかってない」と思うようになる。

そうなると言葉の使い方も

「これはこういうものだ」「これはこうあるべきだ」と断定的になる。

 

でも人の思うことというのは

環境や遺伝子的性格や経験やらで出来上がった色眼鏡を通して見る世界への感想。

この眼鏡は外せないし、外す必要もない。

 

色眼鏡が悲観的な色眼鏡と

楽観的な色眼鏡だったら

同じ事実を見ても真実はその色眼鏡次第で変わってくる。

もちろん私にも眼鏡はついている。

 

色眼鏡で見ることを悪いことだと言われることも多いけれど

外せるものではない。

他人の色眼鏡については想像することしかできない。

色眼鏡で見ることが悪いというより

「自分が思ってることは

あくまで自分の色眼鏡から生まれたことなんだな」という事を

すっかり忘れてしまい、

自分にとっての真実が誰にとっても当てはまるのだ!と思い込むこと

こうなると少し近寄りたくない人間が完成する。

そういう人間が集まると色眼鏡vs色眼鏡で争いが起こる。

でもこれは決着のつけようがない。

 

自分の色眼鏡って悪いことじゃない。

例えばこういう言葉のつぶやき

「好きの反対は、嫌いとか無関心とかじゃなくて、もっと別のものな気がしてきた」

私はこういう人のつぶやきが面白いなと思う。

その人なりの好きの反対の定義を作ろうとしているからだ。

 

「世間的にはこういうもの」「王道ではこう」

そういう話は、大体がどこかで聞いたような話だから

あまり私の心はくすぐられない。

でも、その人が自分の人生の中で感じた中から生まれた定義というのは

その人の色眼鏡だからこそ見える世界。私には知らない世界。

その世界を聞かせてくれるのって、とても面白い。

 

 

今回の話で言いたかったこと。

 

私はここのブログで色々な考えや発見したことなどを

自分の部屋なので好き勝手この先も書いていく。

でも、ここに書いてることは

全て「私」という色眼鏡を通して見えたものを書いてるから

それが、あなたには当てはまらなかったり

私が面白いと思ってるものが全然面白くなかったとしても

それは別々の人間だからごく自然なこと。

あなたが自分を否定する必要もないし、

私が自分を否定することもない。

 

たまにツイッターとかで

誰かの書き込みに対して

「私はそうは思いません」とか「私がだめってことですか?」

なんて書き込みを見たことがあるのだけど

相手が思っている世界に入っていって「私は違うんですけどお!」と

わざわざ主張しなくても、違う人は沢山いる。

その意見が違う人たちが

「私は違うんですけど!」とわざわざ声を荒げて言わないのは

恐らく「違っていても別にそれでいいしそれって普通」と流すから。

 

「違ってるから私は間違ってるの?」なんて、そんなことはない。

むしろ「私」が思ってることを「私が」大切にできていればいいこと。

 

いちいち気になってしまうのは、疲れて余裕がなくなってる時だったり

他人に気を使って自分に嘘をついて苛々しているという可能性もある。

人にばかり優しくして

自分を後回しにしてきて、自分がわからなくなっちゃってるとか。

 

そういう時は問答無用で、人の言葉はシャットアウト!を推奨。

「他人なんか知らんがな!はっ!」くらいの心持ちで

自分集中モードで、自分癒しモードで、自分に栄養あげるモードで。

自分自分、自分で良いのだ。あなたはあなたが一番。

あなたはあなたを一番うんとかわいがって。一番大切に思って。

私と違くても、違うのが面白いよ!って思えなかったら楽しくないから。

そしたら無理なくここのブログもいつだってシャットダウン。

 

「まじかシギ。おめえってやつぁ、そんなこと考えてるのか!

はー!おもしれーやつだ。おれもおれでがんばっぺなあ!!!」

くらいの気持ちで見てもらえると幸い。

 

私も友人のブログやツイッターなど見ている時は

「お!あいつ頑張ってんね。私もやるどー!」と思ったり

仮に内容が病んでても

「お!あいつ病んでんね。ま、そういう時もあるよねー!」と思ったり。

 

そんなこんなで、私は自分にとっての話をしつつ

同じように思う人との出会いを広げたいと思いつつ

自分の場所で、自分の旗をどんどんふわさーっと広げていく。

けれどそれは、「あなたも私のようであれ!」ってことではない。

むしろあなたがあなたの道を歩いて行くことを

私は全力で「それええやーーーーーーん!!!!!」と

応援しあなためがけて応援の旗を振りたい。

人の心を動かす教え

私の通っていた教習所は少し変わっていた。

 

これは今の時代ならではなのかもしれないけれど

教習所に入ると、最初にシートみたいなものに

「どんな指導をされたいか」というのを書く欄がある。

「打たれ弱いので優しい先生がいい、叱らないでほしい」

「ドMなのでドSな先生がいい」など、要望を書くのだ。

先生を指名することもできる。

 

そしてそこでは

「何曜日は占い師がくるよ」

「何曜日はネイリストがくるよ」など

教習所以外にもサービスがあるのだ。

完璧に商業施設だ!

 

そこにいる先生も個性的な方が多くて

ある先生は教習中に私が聞き上手だったからなのか

そこの会社の愚痴をずっとこぼしていた。

「社員旅行はどこにいったんだけどあそこがよかった」とか

「感想文を書かなきゃいけないんだけど

なんでそんなことしないといけないんだ」とか。

私は内心こいつすげえなと思いながらも

面白くて「それは大変ですな」と相槌をうちながら運転をしていた。(ただの先生を乗せたドライブ)

 

そして今でもたまに思い出すのは最後の路上教習。

最後の先生は、少し強面な感じのリーゼントっぽい先生だった。

他の先生とは雰囲気が違ったけど、違うのは雰囲気だけではなかった。

詳しい内容は覚えていないけれど、

教習所で習ったこととは違うことを先生はやっていいといった。

そして「前の車の流れについていってごらん」と言った。

 

先生はこう言った。

「教科書で習うことや先生が言うことは最もなことだけど

習うことと実際の現場は違う。

一旦道路に出たら、教科書通りのことよりも

道路で実際に走っている先輩から学んだ方がいい。

そこで何が良いのか、何が危ないのかを肌感で学ぶんだ」

 

先生!!!!!一生ついていきまっす!!!!

 

と内心思いながらもさらっと最後の路上教習は終わったのだが

その先生の言葉が今になってもたまーに頭をかすめる。

 

それはさながら「守・破・離」だ。

型や教わったことを守り

そこからそこをあえて破り

最後には指導者から離れ自分をさらに発展させる。

 

先生のその言葉は運転だけじゃなくて

人生の色んな場面において当てはまるなと感じた話で

今でもその言葉をふと思い出しては

私の人生は今どういう道だろう。教科書を気にして縛られているか。

破るべきところなのか。時代に乗るか。あえて外れるか。

などその時その時で自問自答する。

 

先生は学校の先生ではなく車の運転を教える先生だけど

私にとっての先生とはそういう存在だ。

ただの決められた教科書をただ伝えるという仕事ではなく

もっと広く深く、生きることについてまで通じることを教えてくれる人。

 

離れて何年も会わなくても、この先も会わなくても

先生の顔は薄ぼんやりと忘れていったとしても

先生が伝えてくれた教えは心に刻まれ生き続ける。

そして先生が死んだとしても想いは受け継がれていく。

そういうものを感じる時、人の素晴らしさ美しさを感じる。

こういう時、人間として生まれてよかったなと感じる。

保護中: 自分なりの三方良しを作る。*シ組*

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私は良い人ではない。

人間としての癖や歪み、自己中さを書いてみる。

私には人に気を使ったり倫理的な部分に潔癖になる部分と、

めちゃくちゃ自己中心的な部分とが色濃く存在している。

 

なので

「私ってこんなことして嫌なやつ・・」とか

「私って正しくない・・」と思って今現在、自己嫌悪にある方は

この私の癖をみて「こいつほどじゃねえや」と思ってもらえるか

「それくらい自己中でもいいのかも!」と思ってもらえれば幸い。

 

思い起こすと、多くの人が経験していそうな

社会をまわすための仕事(上司や部下がいて、決まりごとがあって)を

私はしていない。

社会経験以前に、学生時代に遡ってもそうだ。

中学校の頃の部活も先輩後輩の概念が嫌いだったので

そういう概念というか関わり合いのない部活に入っていたし

自分が不快に感じる場所からは徹底して避けていた。

持久走も疲れるからしない。

プールは水着になるのが面倒くさいからしない。数学は8点。

大学の英語のクラス分けテストでABCのマーカー式の時なんかは

問題を全く見ないで色だけ適当に塗ってたら

まさかの上から2番目の優秀なクラスになっちゃって

結果自分が苦しむというまるちゃんのような展開になったよ。

 

自分にとって面白いと思えない情報に興味がないので

ツイッターでフォローしている人達で

顔見知りでも気にせずガンガンミュートする。

「付き合いだからフォローはするけど、

あなたの会話に興味はないのでミュートします。」ということだ。

文字にすると冷酷な感じがする。

でも正直な気持ちに従うとそうなる。

 

そして電話にでない。

話していてよっぽどテンションあがって

元気でるなーと思える人以外は(あと制作の話をするのでしょへすんとはする)

たとえ昔お世話になった人でもでない。

自分がこれをしたいと決めている時間に横槍をいれられると気が散るため。

ちなみに私の姉は私と正反対で、しょっちゅういろんな人に電話をかけている。

姉妹でもこうも違いがでるのかと驚く。

ちなみに姉から電話がかかってきても無視する。

 

ラインが来ても、興味がないと返信しないかすごく遅れて返信する。

その代わり、これは必要があると思った人には速攻で返す。

 

「私の人生の時間で何をするかは私が決めることなので

そこから外れているものは相手が誰でも容赦無く削ぎ落とします」といった感じ。

 

人に対する扱いが雑なように思われるかもしれない。(多分雑)

けれど自分にそれを思って実行している以上、相手にも強制を求めない。

相手の人生は相手が決めた通りに実行することが一番と思ってるので

友情関係は基本的に

お互い好きに生きろ、困ったことがあったら連絡しろ。

年一くらいで会って馬鹿話しよう。

それ以外は好きに生きてくれ、という感じで友達関係も成り立っている。

 

雑なようだが、そうではないのも少し。

 

私は店員さんには丁寧に礼儀正しく接すると決めている。(自分フォローのターン)

チラシを配る人に対しても、受け取らない時は一礼してから通りすぎる。

ドリンクバーや駐車券などがわからない人がいたら自分から声をかける。

私の中でこういう礼儀のような型はとてもとても大切にしている。

電話やラインは無視するが

ツイッターで知らない人からでもコメントはほぼ返している。(見落としてた方いたらごめんなさい)

偉ぶる気持ちやマウント皆無なので、

相手がどんな偉い立場の人でも小学生でも他人に対する態度は変えない。

ファンの人からのメールも見落としを抜かして大体9割方は1度は返信をするようにしている。

これは自分に宛ててくれた人への礼儀なので当然のことだと思っている。

私に時間を使ってくれた人を無視するのは、私の思う美しさに反している。

それを昔「シギはそういうフレンドリーさよりも高貴さをもった方がいいんじゃない?」

と言われたこともあったが、フレンドリーなつもりではなく当然の礼儀なのだ。

例外として、妄想を抱くなどの私が好まない人はすぐに警察に通報をする。

 

自分フォローを全開にしたところで、

「電話をでないことやラインを返さないことや人をミュートするのは

礼儀を欠いているのでは?!」と責められそうだけれど

そこははっきりこう伝える。「礼儀を欠いている!」と。

360度開き直るのだが(開き直りすぎて元の位置に戻って来ている)

自分のやりたいことやしたいことを優先して

人を雑にしてしまうのは日常茶飯事なのだ!!すまん!!!!これがわたし!

 

「これは人の礼儀として欠かすことはできませんよ」とドヤ顔でいってるのと

「これはめんどくせーもん、無視無視ー!」と鼻をほじってる私は

どっちも純粋に存在している。

だから、人が抜けてたりするのを責める気にならない。自分がそうだから。

あと全部が正しいとか品行方正よりも

自分独自のルールとか美学があって

それがはたからみると「そこでそんなこだわりだす!?」

「そこそんないい加減でいいん!?」って思えたりしちゃう

そんな人の方が私は惹かれる。でこぼこな感じ。

なんかこう自分が想像できない人の心や動きを持つ方が面白い。

でもそれが嫌悪感に思えたりめんどくさっと思う場合は

800kmくらい心の距離を置くけど。

 

相手は他人で、相手からみた私も他人。

だから干渉しないし、人が決めたことを尊重する。

いちいち何かをアドバイスしたりもしない。

求められたら、自分なりに真摯には答えるけども。

まぁとりあえず、やりたいならやってみたら?

それくらいライトな方が、自分の人生の速度も軽やかになりそう。

そんな風通しの良い付き合いがしたい。

そして面白いと思う相手の動きや生き方を見ていることが

自分自身の刺激にもつながる。

 

良い奴なのか嫌な奴なのかわからないけれど

人はわりとこんなもんで、どっちもあって、

見る人によっても好みによっても変わって、

それでいいんじゃないかな、と思う。

先ほどのニュースのコメントもそうなんだけれど

「ちゃんとしたほうがいい」「それは間違っている」という言葉が

多く流れているのを見ていると心が不自由になる感覚がして。

正しさで相手を縛ったり断罪していると

結局それは自分自身にも返って来て、

それをいっている自分も正しさにがんじがらめになって

息苦しく不自由になったりするんじゃないかなと思うから。

 

そんなことより、スーパーでお団子78円だったぜー!みたいな

子供心をこの年齢でも(恐らくこの先もずっと)持ち続けている

自分が自分といる時間が楽しい。子供といるのは疲れるが楽しいから。

この先も面白いか面白くないかで動いていきたいと思う。

 

そしてこういう癖を見せることを、昔は遠慮していた。

かっこ悪いしなんかうるさいこと言われそうだし。

でも私が人間のでこぼこさや歪さがある人って面白いよねと思うように

私みたいな性格を面白がってくれたり、

同じような感覚で生きてる人も存在する。

そういう人と一緒にいた方が心地良いし面白いので、

もっと自分の色を出していって、自分という色の旗をあげた方がいいと思った。

私の旗の色が気に食わなかったりしたら距離をとれる選択も相手側ができるし。

 

みなさんも、自分の癖を全開にした方が、

もしかしたら自分に合い、相手にも合う友達や仲間との出会いがくるかもしれない。

私もそんな素敵な出会いができていって

自分や相手の人生がもっと面白くなれたらいいなー!