長所と短所は背中合わせ

「自分のこんな所が嫌いだ」という人の、その嫌いな部分は長所にもなり得る。

自分がそれを好きかどうかはさておき、短所は長所に転じる。反対も然り。

 

少し話が変わるように感じるかもしれないけれど、最近私の感じた話。

「自分があるものを信じたい気持ちと、それが正しいかどうかは別の話」ということ。

正しさは人や状況によって変わるし、正しさに縛られると動けなくなる。

自分の信じたものが何に対しても誰に対しても正しさに当てはまるというのは傲慢。

そんなに大したものでも、すごいものでもない、ひとりひとりの人間は。

誰でもない、ここ最近私は、上記のことを自分自身に思うことがあった。

 

私のエネルギーの強さやストイックさは

たまに身近な人に対して鋭利に発動する。

先日話した硬い鉄としなやかさの話とはまさに私のことだ。

気合いと集中がいきすぎると周りをぶっ刺さる勢いで自分と他人に厳しさMAXになる。

「そんなんでいいのかよ!!!お前そんなもんじゃねえだろ!!!」

と心の中ではいつも他人に思いつつも大きなお世話なので言わないけれど

ストイックモードにはいっていると最近は身近な人に口を挟んでいることに気づいた。

は!私は人に言っている!と自分が変化しつつあることに驚いた。

 

そのストイックハイパー大きなお世話人モードになりつつあったので

反省したのだけど、そんなに反省はしていない。

 

完璧な人間にはなれないなーと思った。

何かを選んだ時に何かを捨てるのと同じで

自分の長所は自分の短所としても受け止めなければと思った。

なるべく人を傷つけないよう、注意はするけれど。

完璧じゃないのだとしっかり受け止める。

この長所は、刃物という短所になりやすいのだと受け止める。

けれどこの刃物を捨ててしまえばいいわけではないと、受け止める。

「逃げたい」は「本来の場所に行きたい」ということ。

「逃げたい」と思う気持ち。

少し言葉の使い方に違和感を覚える。

逃げるのではなく本来の場所へ行こうとしているのではないか、と。

 

「逃げたい」という気持ちを内省して考える。

逃げたいと思う場所と自分が合わない理由が出てくる。

単純に考えて、合わない場所で力を出そうとするよりも

自分を発揮できる場所に行く方がいい。一度や二度が全てではない。

それは逃げではないと思う。自主的な移動。

 

とはいえ、場所を変えることが出来る場合と難しい場合は存在する。

私の場合、大人になった今では大抵の選択を自分でしていける。

失うものも離れるものもあるけれど

一つだけ注意しておきたいと思うのは、

何かを変えたいと思った時に必ず恐怖心と不安が現れる。

そこに注意深くなること。

今浮かんだ自分の気持ちは、不安からきた気持ちなのか。

それとも純粋な気持ちからきたものなのか。

不安と恐怖心はすぐに人を狐憑きのように取り巻いてしまう。

この感情がどんなものかを、意識してわかっていると少し生きやすくなる。

不安や恐怖心から来た選択肢は本当に自分が願う選択といつも少し離れている。

 

一方難しいのは子供の頃。子供は大変だ。特に小学校に入る前など。

自分の中に感じる違和感を言葉にする事さえも難しい。

この時期にも疑問を抱く子供はいる。私がそうだった。

けれどそれは大人にいっても理解されないし

自分自身でもうまく言語化できないので、漠然とした孤独に苛まれる。

大人の方がどれほど楽だろう、と大人になった今思う。

今の時代では、子供のために開かれたサポートの場も存在するかもしれない。

けれどそこで出会う大人がどういう人間かでも、明暗は別れるだろう。

ただ子供は命を終わらせずに耐えてほしい。

どんな絶望の時でも時間は止まらず流れている。

死ぬことは大人になってみてから考えてほしい。

君の周りに「大人は辛そうだし大変そう」という大人がいたとしても

それが全てではない。

「子供より大人の方が最高じゃん!」と思う大人だって

確実にいる。ひとりはここにいる。

 

大人は完璧ではないので

大人がもっともらしい事を言っていたとしても惑わされないでほしい。

いうことを取り入れるか取り入れないかは自分自身で自由にしていいということ。

大人も間違えることが沢山あるし、その場その場で何が正解かも変わるものだ。

誰かの意見が絶対ということはない。もちろん私のこの言葉も。

私にとって「今、これを伝えたい」と思うことを言っている。

「こんな考え方してもいいんだ」と思える人に伝えている。

「自分もそう思っていたけれどそう言ってくれる人がいなかった」と

思える人に伝えている。

子供の頃の私のような気持ちに近いものをもつ人間に伝えたい。

それ以外の人間には、伝わらなくても仕方がない。むしろ自然だ。

「私が正しさ」ではないから。

全ての人に頷いてもらえなくていい。

伝えたい人に届けたいから、その人に向けるために書いている。

これも私の考えで、それを選択して、ブログを書いている。

 

話を戻す。

自分で考える力を身につけ、自分で選択することが大切だ。

それは決して易しいことではないけれど

人生に対する充実感と責任感はそうじゃない時の比ではない。

 

ひと昔前では我慢が美徳、我慢を賛美する事が謳われてきた。

なぜこういう苦しみしか生まれないことが謳われるのか。

2つの意味があると私は考えている。

 

1つは、上の立場が下の立場に命令しやすい環境を作るため。

「苦労することは素晴らしいんだ」「我慢もいつかは報われる」

ということで労働者を過酷な環境でも働かせることができる見せ方をする

経営者側や人を使う側が下のものを使いやすくなる言葉。

 

2つは、そういう思いをさせられたことで、次の世代も苦しんでほしいという気持ち。

「俺らの時代はそんなもんじゃなかった」「これくらいの我慢は常識だ、甘えるな」

という気持ちは、自分の世代に許されなかったものが今許されていることに関して

「俺たちは損をしている、あいつらの得が許せない」という損得勘定から。

 

バブルが弾けてもなお経済的成長のレベルを下げまいと邁進したとしても

今までのような働き方では成長の数字としてもう表れないので

通用しないことがわかる。

「何も考えず、いう通りにして、馬車馬のように働くことが成長に繋がる」

こういう時代は終わった。

何も考えずにできることは、代わりにA.Iがやってくれる。

A.Iが社会に組み込まれることを、仕事を奪われると恐れる人もいる。

けれど誰でも出来る仕事をする必要がなくなることで

自分には何ができるのか、自分の得意はなんなのかを

真剣に考えることになるだろう。

自分のためになることが、社会のためにもなる仕事とはなんだろう。

こういう事を考えて実行できるのが良い社会のあり方だと思う。

自分を殺さないとお金がもらえないのは、不健全だ。

それではなんのために生きているのかがわからなくなる。

そこから逃げたいと、思わない方がどうかしている。

 

今まで、人の顔色や常識を気にしてやりたくもないことをやって

自分を生かしてきた人には、最初は苦しい時代になると思う。

けれど思考というのは何歳からでも身につけられ、鍛えられる。

人任せ、社会任せをやめる時代が来ている。

 

長くなった。まとめ。

何かから逃げたいと思うのは、甘えではない。むしろ苦しい。

自分の気持ちに嘘をついてない人だから表れた感情。

無視をしない方がいい。

逃げるというのではなく、本来の居場所へ戻ろうか、という気持ち。

「遠回りをして、随分違うところに来ちゃったな。

いろんな思いもしたし、そろそろ戻るかね」

 

でも次が最後ではない。失敗が許されないなんてことはない。

そこまで自分に期待をしなくていい。

ほんのちょっとの成功と失敗、ささやかな幸せと不幸せ。

それらを、言われたからやっているのではなく

自分が思ってやったことなのだとしたら

どんな小さな成功も、失敗も愛おしいものに変わる。

 

勇気のいることかもしれない。

そういう勇気のいること

みんなはどう勇気を持ち

どう自分を生きていっているのか

そういう人の姿をお伝えする場所を今後作っていきたい。

類友

昨日はメンバーとご飯を食べに行きました!

初めて食べに行くのでどんな感じになるのか

ちょっとドキドキ楽しみだったのですが

想像以上に楽しかった。居心地が良いなぁ。

マチズモ感もないし、誰も強制したりしないし

馬鹿にして笑うとかもないし平和なメンバー。

自分もこうありたいと思えるような人たちに

囲まれているのが健全だしそうしていきたいと思ってる。

類は友を呼ぶ説を結構信じているから

自分はどうありたくて、どういう人と一緒に生きていきていきたいか。

それに今なってるか、どうしたらそうなれるか

考えてそしてトライして生きたい。

そういう意識をもってるだけでも出会える人達が変わってくる気がする。

久しぶりに飲んだ日本酒。

自分を大切にすること

私も酔っ払っているので大概だが

隣の女性の足元も覚束ない具合に

私は酔いも覚める気分

ちゃんと帰れるのかい 君は

私に寄りかかるぶんには構わないけれど

その先が気になるのは

時代がそうさせるのだろうか

けれど私だけじゃないんだ

この問題を気にしているのは

女性だけじゃない

男性のなかにも

おかしいと思っている人が確かにいるんだよ

みんなが

男も女も関係なく

ありのままで思うことを言える社会になるように

私たちが出来ることがあるとおもうんだ

すごい人がするのを待つんじゃない

ごく普通の

私たちが声を挙げなければね

「その行動は自分に対して誇れるものなのか」

伊藤詩織さんのニュースを見ていて

ひとつどうしても違和感に思ったのは

山口敬之さんサイドが言っていた

「被害者が笑うのはおかしい」という内容の発言。

 

ここにも「普通」という呪いが出てくる。

普通、被害者は悲しんでいるものだ。

普通、被害者が発言する元気があるのはおかしい。

 

裁判はまだ続くし、断定的なことは言えないけれど

この発言はどうにも疑問に思ったし、憤りを覚えた。

 

そういう「普通はこうしない」という圧力によって

殺された声があまりにも多くあると思う。

 

日本は経済も発展した成熟した国ではあるけれど

強制性交の被害のわずか4%しか被害届が出されないという。

勇気を持って警察へ行っても、人形を使ったレイプの再現などをさせられ

セカンドレイプにも近いことがあるという。

傷を何度もえぐられたくないと行くことを躊躇するのも当然だろう。

 

BBCもワシントンポストも、中国や韓国のメディアでも報じられた。

こういう事が世界に拡散した時に

「日本が悪いと思われるだろう」「世界に恥をさらすな」という

愛国者を名乗る声が存在するけれど

私は日本を本当に愛しているのならば

日本にある問題には紳士に眼差しを向けるのが愛であり強さだと思う。

「臭いものに蓋をして、誇らしい所だけ世界に発信」というのは

違和感に思う。

どこの国もその国の問題はあるものなのだから

強がらず、もっと正直に誠実にあるべきだと思う。

 

セクハラについても、昨今はより敏感になっている。

今まで「仕方がない」「私さえ我慢していれば」と思っていた気持ちに

光が当たるようになってきた。

 

「どこからセクハラになるかわからないから怖い」という人もいるけれど

仕事をする上でそれと関係のない発言をしなければいいのだと思う。

立ち入ったこと、失礼なことをせずに、仕事に集中する。

そもそも相手に対して何が失礼にあたるか、という事を意識せずに

好き勝手話しているとデリカシーのない人間になる。

人間は誰しも心があるのだから、

相手と会話をする時は礼儀や距離感を保っていたい。

 

少し前の世代の中には「下の人間を馬鹿にして笑う」「からかいも愛情」という事が

コミュニケーションとされていたけれど

これも今の時代では通用しないことだ。

年下年上、男性女性、上司も部下も関係なく

ひとりの人間として尊厳が踏みにじられることを良しとしない。

そんな時代に少しずつでもなってきたかと思うと希望を感じる。

 

けれどそんな時代になってきたのは

勇気を出しておかしいことをおかしいと声をあげた人たちがいるからこそ。

だからこそ勇気を出した人の声には誠実に耳を傾けたい。

 

「確かにおかしい!」

「いや。そんなにおかしくなくない?」

声をあげると、色んな賛否がわくけれど

問題が浮上し、それを知ることで個々人が考えるきっかけができる。

それが大事なことなのだと思う。

 

一方で、男性が女性から暴力やセクハラを受けているという声は

まだほとんどあがっていない。けれどそれも確実に存在している。

 

「男のくせに」と笑われたり信じてもらえないことが声をあげづらい一因だという。

 

性的な問題は男性から女性、ということばかり取り上げられがちだけれど

その中でまだ隠された声が多く存在するということを忘れたくない。

私は女性として、男性に対して失礼な言動をしないように意識したいし

「こういう女性の発言に傷つく」という声には積極的に耳を傾けたい。

「知る」ということが大事なことだ。

他人のことは、知ろうとしなければ知ることはできない。

自分が傷つかない選択を優先し始めると、

周りの人も傷つかずにいられる環境にしたいと思えるようになる。

そのためには知ること、伝えることが大切だ。

 

自分の立場を利用して断りづらい相手に性的な気持ちを持つことは

人間のずるさ、弱さとして断ち切ることは難しいかもしれない。

そういうずるさや弱さを持つ人もいるだろうから。

 

けれどそれを実際に行動に移して相手を傷つけることは

断じて許されることではないし

その行いをする事を恥だと思える人が増えることを願う。

 

「その行動は自分に対して誇れるものなのか」

そう自問してほしいし

私自身もそうしたい。