誰かのためにという傲慢さ。

坂本龍一さんがある記事の中で

音楽の力について話していたのが私はずっと引っかかっていた。

音楽の力という言葉は傲慢だ、というような話だった。

 

私は半分でそれを理解しながらも

もう半分ではそれに少し抗いたい気持ちもあった。

 

けれどここ最近、すごくそれが腑に落ちた。

 

私があまり好ましく思わない男性として(いきなりこんな話ですまん)

「心配してくる人」というのがある。

私が実際にめちゃくちゃ落ち込んでて(お財布落としたとか)

それで心配してもらえるのは良いのだ。それはありがたい。

 

しかし私はいたって元気にやっているのに

「大変なんじゃないの」「不安になってるんじゃないの」「辛いんじゃないの」

という色眼鏡で見てくる場合がある。

そして「センシティブなシギはかわいそうで俺が守ってやらなきゃ…」と

いう図式にされ物語化される事が度々あった。

 

私はそういう男性に寄り添ってもらうのが好きではないので

内心で(同情するなら金をくれとはこの事だなふふ)と思っていた。

心配されるというのは、

心配している本人にはそのつもりがないかもしれないけれど

人をかわいそうな目で見ているということだ。

もちろん本当に不憫な状況を見た場合、人がそう思うのは自然なことだ。

けれど決してそういう状況にない人を

想像の中でかわいそうな人間に仕立て上げるというのは

なかなか失礼な話なのである。

想像して見てほしい。

あなたが元気に気持ちよく過ごしているのに

かわいそうな目で見られるということを。

もはや「かわいそうであってほしい」と願われているのだ。

 

それは自分が優位にたちたいという心理状況なのかもしれないし

守りたいという欲求を持て余しているのかもしれない。

しかしその勝手に作った物語を押し付けられる方はたまったものではない。

 

私はそういう過去の出来事を眺めていて

はたと気がついた。

これ、実は私もしているんじゃないの?と。(気がついた時にはぞっとした。)

 

私はよく、不安をもっている状況にある人のためになりたい(癒しとか勇気とかのわかりやすい言葉にはしていないけれど)

というような言葉を言っていることがあった。

これは自分の音楽の役割であり大切な部分だと思っていた。

 

けれど。

私はそのことについて振り返った時、ごく自然にこう思った。

「いや別にそんなのよくね?」と。(思った時のまんまの表現)

不安になる時なんて、普通に生きてりゃあるわ。

別に他人がわざわざそれに手をつっこんでハッピーにさせたいとか

慰めてやりたいとか

ひとつの人格を持ってる人間に対して

全く赤の他人である自分が偉そうに何かを変えてやりたいと(言い方はもっと優しい言い方だけどね)

思ってることそれ自体が傲慢だな!

と、私は自分に思った。

 

別に不安でいいじゃん。不安になるわそりゃ楽しい時だってあるんだし。

その人のその時の状況や感覚を尊重しようや。

脳みそに手を突っ込んで音楽でなんとかしてやりたいなんて

おこがましいにもほどがあるわ!(もう一人の私「ひえええええお許しをおおお」)

→というわけで、冒頭の坂本龍一さんの言葉が心底理解できた。

 

昔、私がすごく悩んでた時に友達にそれを話したら

私の悩み事を笑い話にしてきた。めちゃくちゃ軽やかだった。

当時、死にそうなくらい悩んでたのに

「なにそれうけるんだけど!ネタじゃん!」と言われた。

(これは人によるだろうけれど)私の心には響いたし勇気になった。

自分が悩んでることってそんなに笑われるくらい大したことないのか

深刻に捉えなくていいのか、確かにそうだよなと思って気持ちが軽くなった。

あとはその友人が、そんな事であんた終わるような人間じゃないっしょと

私のことを見てくれてる気がして嬉しかった。

弱ってる私の心の奥にある強さみたいなものを信頼してくれてる気がした。

 

シリアスに、真剣に話を聞いてくれたりアドバイスしてくれるのもありがたいけど

それよりも「大丈夫だって」という一言が私の救いになった。

なんの解決策にもならない言葉だけど

私の心は軽くなって問題に対して前向きになれた。

人が人にできることってそれだけで、むしろそれだけがいいのかもしれない。

 

他人を心配して、あれやこれやと口や手を出すことは

その人の強さを信じていないからかもしれない。

それか自分がそうすることで自分を満たしているのかもしれない。

 

もちろん人間社会や、それに限らず環境や動物の問題は沢山あって

具体的に沢山の人の手による解決が必要な場合もある。

自殺やいじめ、女性の権利やそれだけじゃなく男性の生きづらさも

そういう問題は知っていきたいし、声をあげたいと思っている。

生きづらさを少しでも解いて自分がしたい事ができる社会になるために

そういう行動はしていきたい。

 

 

私をかわいそうな人に見立てて心配することで気持ちを満たす人がいて

それって失礼だよなと腹がたったことで

私自身もそういう人の強さを見ないで

お節介にコントロールしようとしてた部分もあるなと気がついた。

 

不安を解消し前を向くための音楽。

それは一見聞こえが良いけれど、そんなのは聴いてくれる人の心が決めることだ。

やる側が言うことではない。

不安を癒してあげる、勇気づけてあげる。

そういう「〜してあげる」という言葉は

自分がしてあげないと、あなたはだめでしょって言われてるみたい。

そんな事ないのにね。

そんな事言われてたら「私は弱いんだ、だめなんだ」って

思い込んじゃうよね。

むしろ不安でいたって全然よくて

不安から立ち直りたいと思った人が何かを摂取して

不安から解消されたなら、それが自然なこと。

それでいい。

 

他人がとやかく他人に何かをしたいと思うことそれ自体が

少し歪んだ欲求なのかもしれない。

その歪んだものが人間らしくて好きだったりもするんだけど。

そういうのも人間だと思うから、攻撃する意図はなくて、

単純に私はそのモードからは一旦離れてみようと思った。

自分が音楽や活動を考える時に

めちゃくちゃ人の心について考えたり思ったりしてきたけど

これから先はもっと自分自身の喜びに目を向けようと。

もしかしたらその方が誰かにとって良い作用になるかもしれない。

「はからずも」

それくらいが今の私にとってはスマートで自由だなって。

 

そう思った。

私は、私が美しいと思うもの、惹かれるものを形にしていく。

それを見た人が、勇気が出たよとか、癒されたよと言ってもらえるのは

とっても幸せなことで、ありがたいこと。

それが自然なあり方。

 

 

不安に寄り添ったり楽にしたいというのは

子供の頃や、大人になってもうだつのあがらなかった時の自分を

救いたい、という気持ちが最初だった。

人のためではなく、あの頃の自分のためにやっていた。

 

でも、もういいよな。

私は今を生きて、過去に戻ることはないから。

私が今をやりきる事が、過去の自分の成仏になる。

人の心がどうたらに固執していた自分を手放すことは

私にとってめちゃくちゃ自分の根幹を手放すことに近い。

私はそういう役割だと自分で思ってやってきていたから。

でも私の本質的な部分て、多分そういう所じゃない。

もっともっと、どうしたって変わらない所にあるものだ。

音楽それ自体は、本質的な部分は変わらないし

私がセンシティブなものや退廃的な恋愛の世界観が好きなのも変わらないから

聴いてる人からしたらあまり差はでないかもしれない。

ここにもそういう世界観の詩は書き続けると思うし。

作り出す本人のマインド、

音楽や人との向き合い方が大きく変わったというだけで。

 

ただの自分が自分の心で想像する

きっと美しくなるだろう

きっと楽しくなるだろうことを、どんどん形にしていこう。

本当はそれくらい軽やかで良いものだった。

好きな世界観を変わらず言葉にしていこう。誰のためでもなく。

自分と、自分の好きな世界観をもっと切り離してみて

私は私のままで自由にものを作り上げていこうと思った。

 

そう思うようになったら、不思議とやりたい事とか

新しく始めてみたいことがわんさか出てきた。

まるで自分の心が「待ってました!これもあれもやりたかったんだよー!」と

喜んで言ってるみたい。