もっともらしさから降りる。

四月八日。雨

久しぶりにスタジオらしいスタジオに入って

スタジオ臭がすごく懐かしく感じた。

途中全然出なくて呆然としていたが

スタジオの終了十分前から出始めて

その後の話し合いは止まらなかった。

ここ数日なんだか気分があがらなかったのだが

大体気分が落ち込んでいる時というのは

覚醒手前の予感みたいなものの場合が多い。

覚醒というか、自分の本心や本分を感じる手前というか。

大きく自覚する必要があるんだな(大変だなぁ)と

心のどこかで察知しているのだろうか。

けれど今回のは、今までの感覚とは少し違っていて

「がんばろう」「やらなければ」と思うこと自体が

もう自分の肌にあっていないのだろうなと感じている。

「やらなければ」と無理をするということは

自分を大きく見せたり、無理をしなければ成り立たないということ

それを続けていれば破綻がやってくるし

確実に自分を痛めつけスランプになる。

そんな事を言いたいのだろうか、やりたいのだろうか。

それは自分を大きく見すぎている。虚栄でしかないような気がした。

立派な人間として生きたいわけではない。

正解を言いたいわけではない。

ただのこの自分のそのままのなんでもない姿で

音楽をしていくという

私以外の人からしたら今までもそうだったんじゃないのと

思うようなことかもしれないが(確かにそうだが)

「若干の無理をする、気構えをしている」という素直さから

「その無理や気構えやちゃんとした感覚から降りる」という

ただの私の時に感じる気持ちを

歌にしてみようと思った。

私と私以外の人の

根底は大きく見ればきっと大した違いはない。

内容は違えど、似たような疑問や哀しみや優しさを感じている。

そう思うのは、同じ時代を生きているから。

自分が傷つかないために

自分を守りたいために歌っているわけではない。

傷つくのは当たり前、気持ちを持って生きているから。

いかに自分が裸になるか。

もっともらしさから降りるか。

それは強くも弱くもない自分を認めたいと思っているからでもあり

また、伝えたいことがある人達の存在があるからである。