当たり前はない

携帯に視線を落とす人達は

近くにいても

遠い場所にいる人のよう

目の前のものをぞんざいにして

画面の世界に夢中になる

目の前のものが突然いなくなっても

暫くは気付きもしないのだろう

そういう様を見ていると

たまに寂しさに似た虚しさに襲われる

青と紫

四月十四日。晴れ

髪を切って色を入れ直した。

今日は買い出しなどで一日を終える。

少しずつ少しずつお家を自分形に変えていく。

シ組弾き語りワンマンライブ

4月28日(日)に高円寺にて

シ組会員限定弾き語りワンマンライブを行います。

チケット代は無料でドリンク代のみかかります。

当日は15時半開場16時開演

ライブを1時間ほど行ったあと

17時から懇親会を行います。

希望者の方だけとなりますので

シギのライブだけ見たくて

懇親会はちょっと…という方は

無理せずライブのみお楽しみください♩

18時終了予定ですので

遠方からいらっしゃる方も

明日お仕事などある方もお楽しみ頂けるかと思います!

 

また遠方や事情があり来れない方への

生配信なども考えております!

またこの日に弾き語りのアルバムと

デビュー前に販売していた楽曲の再販を

したいと思っています(絶賛制作中です…)

詳細が決まりましたらお伝えいたします!

現在会員でない方も入会されますとご参加できます。

入会希望の方はこちらから登録してください↓

http://shigi.net/shigumilp/

 

夜明け

人間の世界には

沢山の喜びや悲しみ

嫉妬や慈愛や希望や絶望や

もがき生きるものや

賢く生きるものや

美しくもあり醜くもあるような景色が

そこかしこにある

生きている間のことだ

その景色を目に焼き付け音に描く

私の見た人間の姿と

私と私の愛する人の物語を

保護中: スタジオにて*シ組ブログ*

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迷子

四月十一日。晴れ

眠くて出発する時間も寝てた。

前日前々日と歌いまくり&長距離移動していたので

思いの外体力を使っていたようだ。

遅刻だ!と急いで

品川方面にあるスタジオに行こうとしたら

羽田空港国際ターミナルに着いた。

にゅすけに迷い方がテクニカル過ぎるとの

お言葉を頂戴する。

迷子札的なもの空港でもらい

それで改札を通ったりして無事に着いた。

スタジオ着くまでが長かった。。

その後は品川の穴場パン屋さんで話し合ったあとに

お腹が空いたので

飲み屋さんでお蕎麦とネギトロ丼を食べる。

目がぱっちりするくらい美味しくて驚いた。

帰宅したのは24時近く。

正しいばかりではいられない

友達の家族の苦労を聞きながら
新曲のタイトルはその人に心を寄せ名付けた
明け方の5時過ぎに歌詞を書き終えた
台湾のステージに間に合ってほっとした

遠い昔に起きた事件を調べていた
その人の無念や悲しみや恨みを思う時
私もまた同じような気持ちになった
その人は沢山の人を殺し
最後に自分を殺して人生を終えた
もっと強く生まれたかったと遺書を残して

人の感情は
簡単な善悪や道徳や常識では測れない時がある
自分でもわからなくなるくらい
何層もの気持ちが積み重なっていたりする

幸せで 笑顔で 明るくと追い立てられて
その人のもつ悲しみが
迫害されることのないように
なかったことにされた感情は
忌み嫌われる感情は
置き去りにされて怒りに変わり
自分や人を深く恨むようになり
取り返しのつかない深さの傷に変わるから
心の豊かで小さな怪獣が傷つき泣き止まずに
全てを破壊してしまうほどの巨大な怪獣に成長する前に

どんな感情だとしても
芽生えたものには理由があるから
無理に無くさなくていいと私は思う
悲しい時に笑顔にならなくていい
心が深く傷ついたのなら思い切り心の中で人を恨んでもいい
自分の心の名誉を回復させるために
上っ面じゃない幸せをこの先に感じられるために

正しいばかりではいられない

私は私を生きる。

四月九日。晴れ

シギの歌をうたいまくった。

しょへいはよく昔の私を

「いつも怒っていた」と言うが

その当時の自分の歌をうたっていると

そのエネルギーの強さにヘロヘロになる。

当時もヘロヘロになっていたけれど。

 

 

私は変わらないな。人の本質は簡単に変わらないものだな。

大人になっても、傷つけあっても、波風立てずに生きていても

自分の本能的な癖というのは治らないんだろう。

そしてその病のような癖こそが私を私たらしめたものだろう。

昔はそんな自分をコンプレックスに感じていた。

もっと楽に生きたいと思っていた。

しかし自分という人間の性質を客観的に見れるようになっても

自分にも他人にも害のない立ち回りができるようになっても

その安泰な日常から楽しみや安心を見出すことはさほどなかった。

いつも物足りなかった、退屈だった、納得できなかった。

表面的なことを楽しいと思えなかった、

良いと思えないものを良いと言えない、

自分の心が傷ついても良いから揺さぶられたかった。

だから大きな声で叫んでいたのだろう。

性分というのはこういうものなのかもしれない。

自分が幸せになるという事にはさほど興味がないのだろう。

それよりも大切にしたいものがあるのではないか。

私は昔の歌をうたいながら先生の言葉を思い出していた。

毒にも薬にもならない生き方をするな。

あの頃の自分には戻れないし戻らないが

捨てることはしない。忘れることもない。

きっと死ぬまで共に生き続けるのだろう。

胸の中に自然と溢れる優しさや怒りや悲しみ

ひとつひとつ掬い上げていこう。

そして声にならない声に届けにいこう。

上手な生き方や、納得の仕方を伝えることはしない。

傷ついても心を殺す必要はないことを伝えにいこう。

普通じゃなくてもうまく生きられなくても

君が間違っているわけではないということを伝えにいこう。

 

 

もっともらしさから降りる。

四月八日。雨

久しぶりにスタジオらしいスタジオに入って

スタジオ臭がすごく懐かしく感じた。

途中全然出なくて呆然としていたが

スタジオの終了十分前から出始めて

その後の話し合いは止まらなかった。

ここ数日なんだか気分があがらなかったのだが

大体気分が落ち込んでいる時というのは

覚醒手前の予感みたいなものの場合が多い。

覚醒というか、自分の本心や本分を感じる手前というか。

大きく自覚する必要があるんだな(大変だなぁ)と

心のどこかで察知しているのだろうか。

けれど今回のは、今までの感覚とは少し違っていて

「がんばろう」「やらなければ」と思うこと自体が

もう自分の肌にあっていないのだろうなと感じている。

「やらなければ」と無理をするということは

自分を大きく見せたり、無理をしなければ成り立たないということ

それを続けていれば破綻がやってくるし

確実に自分を痛めつけスランプになる。

そんな事を言いたいのだろうか、やりたいのだろうか。

それは自分を大きく見すぎている。虚栄でしかないような気がした。

立派な人間として生きたいわけではない。

正解を言いたいわけではない。

ただのこの自分のそのままのなんでもない姿で

音楽をしていくという

私以外の人からしたら今までもそうだったんじゃないのと

思うようなことかもしれないが(確かにそうだが)

「若干の無理をする、気構えをしている」という素直さから

「その無理や気構えやちゃんとした感覚から降りる」という

ただの私の時に感じる気持ちを

歌にしてみようと思った。

私と私以外の人の

根底は大きく見ればきっと大した違いはない。

内容は違えど、似たような疑問や哀しみや優しさを感じている。

そう思うのは、同じ時代を生きているから。

自分が傷つかないために

自分を守りたいために歌っているわけではない。

傷つくのは当たり前、気持ちを持って生きているから。

いかに自分が裸になるか。

もっともらしさから降りるか。

それは強くも弱くもない自分を認めたいと思っているからでもあり

また、伝えたいことがある人達の存在があるからである。

嘘をついてもいいからその胸の奥にある本当は殺さないでくれ

本当の優しさは笑顔でも理解でもないように私には思える

そんな生半可なものではないように思える

上澄みの幸せを撫でて誤魔化し生きて終わる人生が幸福なら

それが幸せだとするなら 不幸のほうがまだ面白い

自覚することもできなくなった他人の冷たい痛みを見つめ

表現をする人は易しい事を言ってはくれない

それがどんなに絶望した人の救いになるだろう

世間には良識的なものが溢れかえっている

正しさに押しつぶされている人たち