三月のライブ延期・中止のお知らせ

三月に予定されていましたレコ発ライブは

コロナウイルスの影響により延期と致します。

それ以外のライブに関しましては

シギの出演は中止とさせて頂きます。

 

現在国内で発表されている人数、

多くの人は風邪程度の症状でおさまるなどの話も聞く一方で

若い方でも重体の方がいらっしゃったり

現状は不確かなことが多い状況と感じています。

電車は一駅ごとにドアが開き換気になるそうですが

ライブハウスなどの密室で換気のされない場所はより危険な場所と喚起されていました。

 

私のお客さんに不安を持ちながら来てほしくないこと、

「不安な人は来なければいい」という声もありますが、

不安な人だって行きたい気持ちがあるのは当然と思います。

その気持ちを無視して「行きたい人だけきて楽しもう」と私の口では言う気になれず

シギのファンの中には私より年上の方や

持病を持っている方や過去に大病をされた方もいらっしゃるため

 

なおさら安易に「来てください!」という気持ちになれませんでした。

私のファンの方にはこの先も長く来てもらいたいし

少しでも健康で生きていてほしいから

目の前の無理を重ねるよりももっと長い目で無事に続けられる方を尊重したいです。

 

しかし、予約してくれた方が残念に感じること

もしかしたらその日のために宿や交通手段を手配したり

何かをキャンセルして空けてくれていた可能性もあり

その事への責任も感じます。

なるべくワンマンライブを予約してくれた方には、

延期になってよかったと思えるくらいの

特典など新しくこちらでご用意できるように考えます。

 

具体的な延期日に関しましては

来月の状況を見つつ、判断したいと思います。

その間はネットでお届けできるものの発表や、

その環境作りに集中したいと思います。

 

認識の差や考え方の差などありますが

自粛しないことを責めたり否定する気持ちはありません。

それに私がこの決断をすることで

とらんぽりんのとらさんをはじめ

関係者の方にはご迷惑をおかけしてしまいました。

本当にごめんなさい。

 

ライブハウスは運営しなければ生活ができないこと

私自身も音楽で生活をしている身なので

ダメージがない訳ではありません。

しかしお客さんの安全と健康が今の状況においては

第一と考え、この結論に至りました。

 

事態の状況が見え、収束の兆しが見えたとき、

この先もとらんぽりんでも、関西でもライブをさせて頂けたらありがたいです。

この度は延期・中止とさせていただきますことをどうかご理解ご了承下さい。

見送る飛行機

私の住んでいる街は飛行機がよく見える。

近い遠いに限定しないと

多い時では5つくらい飛行機を見つけられる時もある。

乗るのも見るのも飛行機が大好きだ。

街を歩きながら遠くから近づいてくる飛行機をみて

「この飛行機はどこまでいくのかな」などと

答えのわからない疑問をぼんやり思ったりしながら

心が穏やかになるようなわくわくするような気持ちになる。

 

最近気付いた事なのだけど、私は乗り物が好きみたいだ。

前に知人に、住んでいる街に飛行機が沢山飛んでいる話をした時に

「それじゃうるさいでしょ?」と

少ししかめっ面をしながら聞かれたことがある。

私は飛行機を見ているのが好きなので

「え!ごおおおー!って音を含めて最高じゃん!」と思った。

この時のことをたまに思い出す。

同じ現象なのに

人によってこんなに真逆な受け止め方になるのかと。

子供の泣き声ひとつとっても

好きな人とそうじゃない人では分かれるし

好き嫌いに関わらず余裕がある時とない時でもだいぶ変わる。

どちらが良い悪いという話ではないけれどね。

自分が好きなものがよく見れる街に住めて

毎日外を歩くのが楽しい。

感じ、表現する。

早稲田BLAHBLAHBLAH

1.生きる

2.普通の人が普通にできることが普通にできない

3.弱者

4.終末時計

5.世界は美しい

6.秘密

7.現実

8.世界

9.君がいて僕がいた

 

今回電車で行ったのですがそれがすごく楽しかったなぁ。

車で知らない土地に行くのもいいけど

気になるとこで簡単に停車できないからなぁ。

都電荒川線に初めて乗って感動。

面影橋駅降りたらすぐに面影橋あり。

この冬!って感じの侘しさが良いですね。

春は桜が咲きそうな雰囲気。

面影橋という名前には色々な説があるらしい。

「悲しい出来事が重なって女性が詩を残してこの川に飛び込んだ

その時の詩の一節を用いた。」

と言うのが一番ドラマがあった。

途中で天祖神社という神社に出会いお邪魔した。

梅の花が結構咲いていた。

道の途中には太い木がいたるところにあった。

私は佐々木のじいさんを思い出しつつ

木をさわさわした。

街を実感するというのは私にとって良いものなのかも

と感じた。

意味は色んな場所に存在している。

自分に集中しがちな意識が分散していく気がする。

 

そしてライブハウス着。

ライブハウスはパブとしても営業をしているらしく

そのご飯のなんとおいしいこと!

今回出演の3人。

前世から愛し合ってるさくぽんと。

クロモさんと初共演。

シギを前から知ってくれていたようで

恥じぬ行動をしていかなければと背筋が伸びた。

番外編・小次郎。

我々も昔からの長い付き合いです。

小次郎は色々企んでいてそれに乗っかった。

 

ライブ中はなんだか精神が静かだった。

少しずつ自分の中の世界が整っていっていて

それが曲目にも私の表現にも表れてきているな

なんてことをぼんやりと感じていた。

 

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第三波「陰極まれば陽に転じる」

この「自分にやってくる精神的な落ち込みや違和感と

真正面から向き合ってそこから自分を知ろう」という体験を

真っ向からやるようになって第三波が昨日やってまいった。

待ってたぜこのやろう!今回はなんだ!

 

昨日の腐り方は私の腐るシリーズの中でも

なかなか上位に食い込む立派な腐りをやりきった。

(もはや好奇心という点において落ち込みを楽しんでさえいるような私)

ことの発端はしょへすんと次作についてやりとりしてて

私が爆発して「もう何もかもやめだー!!!!!」となった。

私がたまにやる「必殺全て投げ出して諦めるモード」が久しぶりに炸裂した。

 

そして布団の中でいじいじしながらちびまるこちゃんを流し続け

朝から18時頃までずっといじいじしていた。

そしてスタジオが20時からあったけれど行く気になれず

頑張って体を起こして40分遅刻したが行った。

しょへすんとは普通に和解。(喧嘩をした訳ではないんだけど)

スタジオはなんなく終わった。

そして今日起きて、昨日のことを振り返り、分析にはいった。

二波目に書いた

「脱・真面目」というのにもろに直面した形だった。

「あ、すごく頑張って、精神的に自分にプレッシャーかけてて

辛かったから、爆発したんだな。俺ちゃんはよぅ」と

自分にフォローした。

そして、それがずっと自分を苦しめて硬くさせてきたけど

第二波の時の「ちゃんとをやめにしようかね」と思ったのを

本当に心底フェーズせざるを得ないくらい

「ちゃんとして苦しいぶぐおぇぇ!」と直面した。

なのでそこを向き合いまり体感しまくったので

そこを乗り越えて自分の肉体にいれられた感じ。

陰極まらないと陽には転じられんのだ。

夜が深まる時朝が近いとはよくいったもんだよ。

変化にはきつい痛みがつきものだ。

しかしその痛みの先に変化があると思うと

痛みがだんだん興味にさえわいてくる。自分の好奇心が恐ろしい。

 

違和感や苦しみに真っ向から向き合うことの重要性は

ここにあると思っていて

自分に帰る(自分の中の良い位置を知るということ)と

その自分で生きていくことを学ぶ、気づくために存在する。

だから貴殿が「うげー!つらたん!」と思いし時には

体を逃すのは大事なんだけど、心の逃避はおすすめしない。

というよりもまず、心で何が辛いのかを知り味わい理解した後に

体で逃げることをおすすめする。

そこの理解が浅いと、何回も同じ壁にぶつかって同じ苦しみ方をする。

 

しかしこの「痛みや違和感と向き合いまくって分析する」

という事を生活の中で意識していると

自分の攻略法がわかってくる。癖も。

そしてそれを嫌な目で見るんじゃない。極力愛でる。

そして調整する。自分の居心地を悪くする癖を少しずつ矯正する。

 

結果今回の第三波で

頑張り屋や野心がすごい自分のパワーも認めるけれども

それに自分が引きずられて精神が消耗しきる今までのパターンをやめにし

もっと体で感じること 惹かれるものに浸ること(これも感じるだ)

自分の中のパワーは「ちゃんとしなきゃ」に使うのではなく

「すごい人がいる!刺激うけるわーがんばろー!」とか

「これはやばい!やったるでー!」とかの方に意識を向けて使おう。

その方が楽しい。

そして誰がなんといおうと関係なく

自分の惹かれるものや好きなものを感じきって

作品に一点集中しようと感じた。開示すること、放出すること。

俺ちゃんはやったるでー!!!!!と

昨日の腐りという陰を極めて陽に転じた本日となった訳であります。

薄々感じていたけれど

人生というのは、実は私がしていた、感じていた苦しみは

じつはそんなに持ってる必要がないものだったんじゃないか…

実はもっとダイナミックに体で生きていくものではないか…

だとしたら怖いくらい最高じゃないか。。

そんな楽しんじゃっていいんですかい?神様!?えぇ!?と

神様を問いただしたくなるような気分になった。

 

私がなぜこんなに自分にばかり目を向けるかって?(聞かれてないけど)

それはいつだって自分の中から作品が生まれるからにほかならない。

私なくして私から作品は生まれないのだ。

そのために外部の様々なものに触れる。自分を感じさせる敏感にさせる。

そして心が混ざり合う。そして熟成したのち、作品となる。

しかしこれはものをつくる人間だから適用できるもの、

とは全く思っていない。

むしろ人間は全てそれをしたほうがいいのではないか?と思う。

全てのものは自分を知るための道具。自分を知り満足させる。

不機嫌な人が他人を幸せにはできないように

自分を満たせたものが人にも豊かさを分け与えられる。

だから自分に興味を持ち、知り、学び、自分を気持ち良くしていく。

それは人の幸せや平和のためにも大切なことなのだ☆(はむたろー風)

 

第四波はやってくるのか…?!どきどき

身を晒す

駅までの道を歩きながら

若さの塊のような音を聴いた

伝えたい事が溢れて

宗教的に一定のリスナーを盲信させるような

きっと私も20代のはじめのころ

何も気にしない心が持てていたら

こういう音をやっていたのだろう

そんな気持ちになった(と思い作曲者を調べたら30歳と私と大差ない年齢だった)

エネルギッシュさは恐れを知らない

その新しさに触れた時

聴き手は恐らくは

熱狂するか顰めっ面をするかどちらかだろう

だがそれが良い

新しさとはそうであるべきだ

人間はいつも何かに触れるとき

無意識のうちに自らの過去を探る

これはあそこで知ったことがある

これはあの音の感じがする など

類推をしたくなるのは人間の証

だからこそ聞き馴染みの薄いような

新しいものは異物に感じ

不安や嫌悪感を抱く人は多い

それも自然な反応の一方で

新しいものを追い求める心は

生き物としての進化には重要なことだ

自分の見知ったものばかりでは

安心安全しかないものなら

人はどんどん退化して劣っていくだろう

新しさに身を晒す

命の躍動を思い出す

一度の命を楽しんで

利口になるな

前から韓国映画とシギのダークな音楽に

親和性があると聞いていて

ちょうどここ数週間で

チェイサー

母なる証明

オールドボーイ

を鑑賞した先に

パラサイトがアカデミー賞作品賞をとり

なんだか勝手に

自分ごとのように嬉しくなっていた。

韓国映画の深みに対しての容赦のなさに

勇気づけられたり

自分の甘さを感じたりしていた。

アカデミー賞では

カズ・ヒロさんも受賞されており

彼が日本の文化に対する姿勢に

嫌気がさして日本を離れた

という言葉にとても考えさせられたし

それは日本の中にいて感じる所でもある。

音楽を作っている人の中にも

周りの目を気にして作品を作る人のなんと多いことか

と感じる。

それをポジティブな言い方をする人もいるし

そう捉える人はそれでいいのだけど

芸術をやる商業人としての

プライドやこだわり以前に

臆病者だから気にしているように見える人が多い。

臆病者でもいいのだ。

しかし臆病者の中にも必ず強さがあるはずだ。

私も臆病者だから。

教育や社会のあり方が

我々から「個人らしさをやり抜く」という

勇気を挫けさせている所もあると思うけれど

そこを言っていてもしようがない

それよりも自分はどう自分を生きていくか

そこに集中するより他ない。

犠牲や誤解を承知の上で

やり切る方を選択した者は

その道を生ききるより他ない。

その中で同じ志をもつ音楽をやる人間や

それ以外の芸術家や

それに限らない職業の人たちと

出会い自分や作品を育んでいく方が建設的だ。

私が言っているのは全ての日本人にではない。

今のままでは良くないと思いながらも

「それでもどうしようもないよねえ」と

自ら動くよりも先に諦めている人間以外の人に言っている。

こういう事柄は

諦めて何も行動しない人

現状維持という退化しか選択しない人には言葉を伝えていない。

そしてものづくりをしている人に伝えている。

カズ・ヒロさんの言葉にとても共感した。

人の目や迎合を気にして作ると

やはりどこかに舐めや加減が生まれる。

それを認めない韓国の作品作りの姿勢を

私自身見習いたいしそうでありたい。

そういう人間と付き合っていきたい。

第二波「くそ真面目国家に教育されたくそ真面目な私からの脱却」

ここ数日の波は落ち込みではなく

ちょっと静けさの感じるような妙な感覚。

 

踏み出しの不安と落ち込みがちょっとひと段落して

その次に出てきたのは

「自分らしくとは」という部分だった。

 

私は自分でもくそ真面目だなと思うところがあり

よく自分で自分を責めることがある。

「ちゃんとしなければ」とはいつも思っている。

ちゃんとできない自分を責めることは日常茶飯事だったし

そういう気持ちで音楽を書くことも沢山あった。

 

けれど「もうその「ちゃんと」はそろそろやめにしないかね」

という打診が心の底でされているような気がした。

「もうそれやめても、君は大丈夫だよ」と心の底が言ってる気がした。

 

このくそ真面目国家日本は真面目に生きるように教育がされ

「お天道様が見ている」とか「努力は美徳」のような

どM根性が子供の頃より叩き込まれている。

私もその餌食のひとりとして真面目な人間が製造された。

(でも従順という名のネジはとれている気がする。真面目ではあるが

上から物を言われる指図されるのが死ぬほど面倒で嫌いだ)

しかし現実はどうだろうか。

努力をしているから報われる保証はない。

頑張ったのだから‥!というのは神頼みに近い。

頑張りが的外れだった場合は

ただ道を外れたものが結果も出ずに

ひたすら頑張り続けるという悲惨な絵になる。

 

そこで私の中の「ちゃんとしなきゃ」神話というのは黙り込むのだ。

ちゃんとしたくなるのは、

自分はやってるからという安心感を得たいためでは?

それだけだと、なんか薄っぺらくない?楽しいのそれ?

と私が私に突っ込む。

 

ツッコミの私は4歳児くらいの常識よりも心に正直なベイビーだ。

そのちゃんとしなきゃで生きるのって楽しいの?

そのちゃんとしなきゃで結果ってでるの?

てか結果が出たところでそれは楽しいの?

納得できてなきゃ続けるの辛くない?と

容赦なく自分に投げかけてくるのだ。

ひえーやめてえー!といいながら

内観をやめない私はそいつと対話を続けた。

「拙者、貴様の言う通りでごわす!」

 

数日前、

早稲田でのライブの曲目を決めにカラオケに行った。

久しぶりにギターを持って自分の歌をうたい

泣きながら歌った(ノンアルコール、しかし自分には酔っていた?なんつって)。

そして私は、ここには嘘がなかったのだな、としみじみ思った。

嘘はない。けれど、手加減をしてなくもないとも、言えなくもない。(どっち)

 

自分がまず感動する歌を書くという点で、

私はどんなに迷っていても

ちゃんとしなきゃと思っていても、そこは貫いている。

 

私はここで自分のコンプレックスを話そう。

私のくそ真面目さは、私をいつも硬くさせる。

ちびまるこちゃんを愛している時のぴーひゃらな私

にゅすけなど友人と話している時の饒舌な私とは

かけ離れて硬くて真面目でつまらん、自分がいる。

それもこれも「ちゃんとしなきゃ」という鎧で

自分をセーブさせてきたからではないのかな。

「もしもし、もう君、もうそれいらないんでないかい?」

「もっと自分の深みや癖や味や臭いを放出しては

その方が楽しいし、周りもわらけるのではないか?(それが鼻で笑うとしても)」

そこまで完璧な人間じゃないのだし、もういいわね。

そんな気がしていた。

 

そして自分の歌を歌った後で、

カラオケで昔好きだった歌をいれて数曲歌った。

なんだかどれもこれも、癖のある歌詞だなあ。

深いし重いし熱いなぁ。これがたまらないんだよな。

 

綺麗事なんてくそくらえだな。そう思った。

耳障りの良い言葉なんて、上っ面の慰めなんて、くそくらえだよ。

そんなもんでどうにかなるなんて思ってんじゃねーぞ。

なめんなよ。

子供の頃の病んでいた私を救ったのは

「大丈夫だよ」とか「一緒だよ」とかじゃない。

「こんな世界なんてどうにでもなれ」とか

「それでも自分を生きろ」という重くて暗くて

でも心強いメッセージだった。

それは今でも同じかもな。

幼少期の癖は

良くも悪くもその人の人格を形成するものかもしれないな。

 

そしてもう一点。

最近本屋で月刊誌だったか、詩集の本を手にとった。

それに衝撃を受けた。

中はほとんど挿絵や写真がない。文字、文字、文字。

ひたすらに文字!

私は圧倒され、なぜか心強い気持ちになった。

 

少し気をぬくとまた「ちゃんとしなきゃ」の自分が

「ちゃんと見やすいようにしなきゃ」や

「ちゃんとわかりやすくしなきゃ」などと口を挟んでくるが

この本はそれを真っ向から否定し、

その上で立派に私の前に立ちはだかった。

「これも、商業誌やで」という風に。

 

わかりやすいものだけが、見やすいものだけが受けるわけじゃない。

むしろ、受取手はわかりやすい方が、見やすい方がいいという

配慮をする事自体が、受け手をバカにしてると私は思っている。

受けては、リスナーは、バカちゃんじゃないよ。

だから、私の中のちゃんしなきゃちゃんよ。

ここはお前の出番じゃない。必要な時は君を呼ぶ。

もっと深みにいかせてくれ、私を。

ものづくりとして、意味を愛するものとして。

そなこんなでここ数日の第二波を終えた。

ちゃんとするより、私は私のやりたいようにやらせてもらっちゃうよ!

第一波「まだ道半ば、歩みを続けるのみ」

自分の感覚にフォーカスを当てた生活をしていると

何週間ごとに波が来るのがわかって(ここ最近は)

数週間前の第一の波はわりと落ち込みや不安だったりした。

でもこれってネガティブではなくて

よりよく生きるためのヒントが眠っている宝の山みたいなもの。

その時、

私は音楽でしている事の芽が思ったより出ていないという落ち込みと、

プライベートでも

「自分にとって重要だと思う事を自分が悪く言われようとも言った方がいい」と思うことをして

それが結果的に

悪く言われる以前に無視された事があったりと、

なんだか散々な気分になるような事が続いた。

 

この事を数日落ち込み切った後に紙に書いた。

「思ったより結果がでなくて落ち込んだ」

「無視されて落ち込んだ」など。

その横に、それを俯瞰した自分がさらに書き連ねる。

「結果というより、まだ一歩しか前進してないから

これからだよ!」

「無視されたのは落ち込むわな。これはもう、距離を置こう」

など。

笑ってしまうだろうか?

私はこのようなことを真面目にやっている。

なぜなら自分を知ること、自分を理解し仲良くなることが

生きるということをもっと豊かにさせると感じているからだ。

 

そしてその第一波を乗り越えた。

何かに直面し落ち込むというのは、

それはもう踏み込んだという証しなのだと

むしろそれは行動したが故のことだから

むしろ自分に誇りに思うべきではないのか、との思いに至った。

 

そしてどんなに近しい仲であろうとも

その人達を変えることは不可能であり

しかしその中に「命に関わること」があった場合

人を変える変えない以前に自分がしなければいけないことがあると

そういう思いで行動した私の結果が

散々なものに終わろうとも、

それでも何もしないで傍観して

周りと「困ったねえ」などと暇つぶしのように言い合うよりは

ましだという思いに至り

どれもこれも、自分の中では結果は全然ベストではないが

思いとしてはベストに近い選択を自分はとったという思いに至った。

 

そして不安や落ち込みの波は去り

出てきた答えは「まだ道半ば、歩みを続けるのみ」だ。

 

前に打ち合わせをしていた相手がこう言った。

「確実にこれをした方がいいということを伝えても

それをした方がいいと言いながらしない人がほとんどだ」と。

これは音楽での話だった。

私はその「確実にした方がいいこと」を即決でしようとしていた。

だから、これは良い戦いだなとにやりと思った。

多くの人がやる以前の問題で、やらない方を選ぶ。

なんだかんだと冒険をしない。

という事は、踏み込んだ時点で人数は限られる。

 

そして私は踏み込み、そして第一波で落ち込んだ。

それは踏み込み始めの結果と期待が噛み合ってなかったから。

そこで自分を俯瞰して、まだ結果がでるほど進んでなかろうが貴様

まだ歩み続けなさい、となった。

 

おそらく、

「やるか、やらないか」の段階でかなりの人がやらない道を選び

やる方を選んだ人が次に立ちはだかるのは

「続けるか、やめるか」の道。

ここで諦める道を選ぶ人も少なくない。

私はとりあえず、第一波を乗り越え、続けることにした。

というか、続けるも何もほとんど歩んでいないのだ。

この、落ち込みやすい私のばかばかー!とぽこぽこしたくなるが

このポンコツ落ち込みやすい私もなかなか不器用で嫌いにはなれない。

かくして私は第一波を乗り越え

そしてここ数日は第二波と対戦していた。続く

久しぶりの投稿。

明日には少し言葉になりそうな気がする。