第二波「くそ真面目国家に教育されたくそ真面目な私からの脱却」

ここ数日の波は落ち込みではなく

ちょっと静けさの感じるような妙な感覚。

 

踏み出しの不安と落ち込みがちょっとひと段落して

その次に出てきたのは

「自分らしくとは」という部分だった。

 

私は自分でもくそ真面目だなと思うところがあり

よく自分で自分を責めることがある。

「ちゃんとしなければ」とはいつも思っている。

ちゃんとできない自分を責めることは日常茶飯事だったし

そういう気持ちで音楽を書くことも沢山あった。

 

けれど「もうその「ちゃんと」はそろそろやめにしないかね」

という打診が心の底でされているような気がした。

「もうそれやめても、君は大丈夫だよ」と心の底が言ってる気がした。

 

このくそ真面目国家日本は真面目に生きるように教育がされ

「お天道様が見ている」とか「努力は美徳」のような

どM根性が子供の頃より叩き込まれている。

私もその餌食のひとりとして真面目な人間が製造された。

(でも従順という名のネジはとれている気がする。真面目ではあるが

上から物を言われる指図されるのが死ぬほど面倒で嫌いだ)

しかし現実はどうだろうか。

努力をしているから報われる保証はない。

頑張ったのだから‥!というのは神頼みに近い。

頑張りが的外れだった場合は

ただ道を外れたものが結果も出ずに

ひたすら頑張り続けるという悲惨な絵になる。

 

そこで私の中の「ちゃんとしなきゃ」神話というのは黙り込むのだ。

ちゃんとしたくなるのは、

自分はやってるからという安心感を得たいためでは?

それだけだと、なんか薄っぺらくない?楽しいのそれ?

と私が私に突っ込む。

 

ツッコミの私は4歳児くらいの常識よりも心に正直なベイビーだ。

そのちゃんとしなきゃで生きるのって楽しいの?

そのちゃんとしなきゃで結果ってでるの?

てか結果が出たところでそれは楽しいの?

納得できてなきゃ続けるの辛くない?と

容赦なく自分に投げかけてくるのだ。

ひえーやめてえー!といいながら

内観をやめない私はそいつと対話を続けた。

「拙者、貴様の言う通りでごわす!」

 

数日前、

早稲田でのライブの曲目を決めにカラオケに行った。

久しぶりにギターを持って自分の歌をうたい

泣きながら歌った(ノンアルコール、しかし自分には酔っていた?なんつって)。

そして私は、ここには嘘がなかったのだな、としみじみ思った。

嘘はない。けれど、手加減をしてなくもないとも、言えなくもない。(どっち)

 

自分がまず感動する歌を書くという点で、

私はどんなに迷っていても

ちゃんとしなきゃと思っていても、そこは貫いている。

 

私はここで自分のコンプレックスを話そう。

私のくそ真面目さは、私をいつも硬くさせる。

ちびまるこちゃんを愛している時のぴーひゃらな私

にゅすけなど友人と話している時の饒舌な私とは

かけ離れて硬くて真面目でつまらん、自分がいる。

それもこれも「ちゃんとしなきゃ」という鎧で

自分をセーブさせてきたからではないのかな。

「もしもし、もう君、もうそれいらないんでないかい?」

「もっと自分の深みや癖や味や臭いを放出しては

その方が楽しいし、周りもわらけるのではないか?(それが鼻で笑うとしても)」

そこまで完璧な人間じゃないのだし、もういいわね。

そんな気がしていた。

 

そして自分の歌を歌った後で、

カラオケで昔好きだった歌をいれて数曲歌った。

なんだかどれもこれも、癖のある歌詞だなあ。

深いし重いし熱いなぁ。これがたまらないんだよな。

 

綺麗事なんてくそくらえだな。そう思った。

耳障りの良い言葉なんて、上っ面の慰めなんて、くそくらえだよ。

そんなもんでどうにかなるなんて思ってんじゃねーぞ。

なめんなよ。

子供の頃の病んでいた私を救ったのは

「大丈夫だよ」とか「一緒だよ」とかじゃない。

「こんな世界なんてどうにでもなれ」とか

「それでも自分を生きろ」という重くて暗くて

でも心強いメッセージだった。

それは今でも同じかもな。

幼少期の癖は

良くも悪くもその人の人格を形成するものかもしれないな。

 

そしてもう一点。

最近本屋で月刊誌だったか、詩集の本を手にとった。

それに衝撃を受けた。

中はほとんど挿絵や写真がない。文字、文字、文字。

ひたすらに文字!

私は圧倒され、なぜか心強い気持ちになった。

 

少し気をぬくとまた「ちゃんとしなきゃ」の自分が

「ちゃんと見やすいようにしなきゃ」や

「ちゃんとわかりやすくしなきゃ」などと口を挟んでくるが

この本はそれを真っ向から否定し、

その上で立派に私の前に立ちはだかった。

「これも、商業誌やで」という風に。

 

わかりやすいものだけが、見やすいものだけが受けるわけじゃない。

むしろ、受取手はわかりやすい方が、見やすい方がいいという

配慮をする事自体が、受け手をバカにしてると私は思っている。

受けては、リスナーは、バカちゃんじゃないよ。

だから、私の中のちゃんしなきゃちゃんよ。

ここはお前の出番じゃない。必要な時は君を呼ぶ。

もっと深みにいかせてくれ、私を。

ものづくりとして、意味を愛するものとして。

そなこんなでここ数日の第二波を終えた。

ちゃんとするより、私は私のやりたいようにやらせてもらっちゃうよ!

第一波「まだ道半ば、歩みを続けるのみ」

自分の感覚にフォーカスを当てた生活をしていると

何週間ごとに波が来るのがわかって(ここ最近は)

数週間前の第一の波はわりと落ち込みや不安だったりした。

でもこれってネガティブではなくて

よりよく生きるためのヒントが眠っている宝の山みたいなもの。

その時、

私は音楽でしている事の芽が思ったより出ていないという落ち込みと、

プライベートでも

「自分にとって重要だと思う事を自分が悪く言われようとも言った方がいい」と思うことをして

それが結果的に

悪く言われる以前に無視された事があったりと、

なんだか散々な気分になるような事が続いた。

 

この事を数日落ち込み切った後に紙に書いた。

「思ったより結果がでなくて落ち込んだ」

「無視されて落ち込んだ」など。

その横に、それを俯瞰した自分がさらに書き連ねる。

「結果というより、まだ一歩しか前進してないから

これからだよ!」

「無視されたのは落ち込むわな。これはもう、距離を置こう」

など。

笑ってしまうだろうか?

私はこのようなことを真面目にやっている。

なぜなら自分を知ること、自分を理解し仲良くなることが

生きるということをもっと豊かにさせると感じているからだ。

 

そしてその第一波を乗り越えた。

何かに直面し落ち込むというのは、

それはもう踏み込んだという証しなのだと

むしろそれは行動したが故のことだから

むしろ自分に誇りに思うべきではないのか、との思いに至った。

 

そしてどんなに近しい仲であろうとも

その人達を変えることは不可能であり

しかしその中に「命に関わること」があった場合

人を変える変えない以前に自分がしなければいけないことがあると

そういう思いで行動した私の結果が

散々なものに終わろうとも、

それでも何もしないで傍観して

周りと「困ったねえ」などと暇つぶしのように言い合うよりは

ましだという思いに至り

どれもこれも、自分の中では結果は全然ベストではないが

思いとしてはベストに近い選択を自分はとったという思いに至った。

 

そして不安や落ち込みの波は去り

出てきた答えは「まだ道半ば、歩みを続けるのみ」だ。

 

前に打ち合わせをしていた相手がこう言った。

「確実にこれをした方がいいということを伝えても

それをした方がいいと言いながらしない人がほとんどだ」と。

これは音楽での話だった。

私はその「確実にした方がいいこと」を即決でしようとしていた。

だから、これは良い戦いだなとにやりと思った。

多くの人がやる以前の問題で、やらない方を選ぶ。

なんだかんだと冒険をしない。

という事は、踏み込んだ時点で人数は限られる。

 

そして私は踏み込み、そして第一波で落ち込んだ。

それは踏み込み始めの結果と期待が噛み合ってなかったから。

そこで自分を俯瞰して、まだ結果がでるほど進んでなかろうが貴様

まだ歩み続けなさい、となった。

 

おそらく、

「やるか、やらないか」の段階でかなりの人がやらない道を選び

やる方を選んだ人が次に立ちはだかるのは

「続けるか、やめるか」の道。

ここで諦める道を選ぶ人も少なくない。

私はとりあえず、第一波を乗り越え、続けることにした。

というか、続けるも何もほとんど歩んでいないのだ。

この、落ち込みやすい私のばかばかー!とぽこぽこしたくなるが

このポンコツ落ち込みやすい私もなかなか不器用で嫌いにはなれない。

かくして私は第一波を乗り越え

そしてここ数日は第二波と対戦していた。続く