最近のコロナなどの社会で起こる出来事に
陰謀論を唱える人は珍しくないくらいには目にする。
「コロナは大したことない」
「コロナで人々の目を逸らしてる間に重大な出来事が行われている」
「コロナにより人類を救う」
そういう事を言う人の心理とはなんだろうか
という事を書いた記事で腑に落ちるものを見つけたのでシェアしたい。
↓「コロナは茶番」侮る人の大量発生を防げない訳
https://toyokeizai.net/articles/-/399496
要約すると、自分ではコントロールが出来ない未知の出来事や
今後の想定がしづらい事への不安や苛立ちを抱えている中で
「実はこの出来事はこういうカラクリなのです!」という
出来上がった物語を信じることで
「わからない不安」から解放されるというもの。
わからないという事はやはり人にとって脅威なのだろう。
私も思い当たる節がある。
意味のわからない出来事(例えば自分では到底やらないような犯罪や
心無いことを言いまくる人を見たときなど)が起きた時
「どうしてこれが起きたのか、この人はどういう気持ちからか」
というのを知りたいと思う欲求がでる。
これもわからないことへの不安を解消したいという気持ちからかもしれない。
「この病気になった事はこういう意味があった」
「不遇が続いたのは、この自然災害は、こういう意味があった」
そういう風に意味づけをすることで安心したいと思うのは
皆がごくごく自然と行なっている。
それ自体が悪いというのではなくて
自分が意味づけをするのは自分の気持ちがしてることで
それと事実で起きてることとは切り離して考える必要がある。
仏教でも同じような事を言っている。
それが脅威なのか愛なのかを判断しているのは人間が勝手にしているだけで
目の前で起きている事実は事実でしかない。
そこに振り回されないためのことを仏教は説いている。
ものすごく昔に存在していた宗教だと思うと
遥か昔から人間は目の前の出来事に振り回されてきた生き物なのだと思う。
脳みそが発達したことの良い部分と悪い部分。
理論の中に感情をいれると問題は厄介になる。
出来事は出来事、そこから生まれた自分の感情は自分の感情として
分けて考える癖はつけたほうが良い。
出来事と感情をごっちゃにして一番しんどいのは自分だから。
時代が混乱し、周りが右往左往する中で
「自分は真実を知っている」「自分にはこの正しさを持っているから安心だ」
というある種のお守りをもつことで
自分の精神を保とうとする。
ある意味では自然な防衛手段なのかもしれない。
自分のアイデンティティを補完するために使う場合の愛国心も同じで
「これが正しいと信じているものがある」というのは
自分のメンタルを強くさせてくれる。
本当の言い方をすると、「強くなったような気分にさせてくれる」。
不安の裏返しなのだろう。
それでも「ないものをある」としたり「あるものをない」とする事は
本来の事実から目をそらすことになる。
精神的安定をとることにより、身体的危険に身をさらす可能性もある。
例えば記事中にも書かれていたように
コロナはないと信じていた人がコロナにかかり亡くなってしまう
事例もでている。
気持ちを横において事実を受け入れることはなかなか易しいことではないけれど
自分は不安なんだ、弱いんだということを自分が受けとめることが
幻想を信じないことへ繋がるかもしれない。
繋がるだろうか?定かではないけれど
自分の不安を抱きしめずに不快だからと無くそうとして
自分を安心させる方へ向かわせたいとする心が
陰謀論を掴むことに繋がるのかもしれない。
そしてそれは私もそうだし全ての人がそうなりかねない要素を持っている。
人には弱さがあるから。手っ取り早く安心したい気持ちがあるから。
それでも強さも存在している。冷静さも存在している。
その振り子が絶えず揺れているのが人間なんだろう。