怖いのは、弱いからではない。

 

国連事務次長である中満泉さんのインタビューが面白くて齧るように夢中で読んだ。

世界は第四次産業革命を迎えることになり

さらに不安定さ不確実性が増していく時代にあって

世界はどうあるべきか、そして日本はどうあるべきか、という話。

 

グローバルに広がる問題に対して一国の視点で解決することは不可能。

複雑な問題には多様な視点を持ち寄って

共通項を見出し、解決策を探っていくことが必要になる、と書かれていた。

 

これは私が去年終わりから思い始めていたことに近かった。

一国をひとりの人間に置き換えてほしい。

自分の中にある問題や可能性をひとりでなんとかしようとしない。

もっと開いて、他者と手をとり

それぞれがもっている資質をよりよく解放し発揮するためにどうするのが良いか

そういうものを話し合い行動しあえる関係性がほしい

そう思い始めていたからすごく共感した。

 

中満さんは、日本人は国際社会に対する関心

世界で今何が起こっているのかということへの関心が薄く

そのことへの問題意識と、国際社会と共に生きていくことの大切さを

今後伝えていく必要があると書いていた。

日本は島国だからどこか他国と切り離されて生きてるように感じるけど

そんなことはない。

食べてるものも着てるものも、日本以外の国と関わって成り立っている。

 

私の周りでもそれは痛感する。

今世界に何が起きて、どういう問題があり、日本はどういう立場にあり

この先どうなっていくのかを想像し、

自分がそこにどう参加できるかを想像して行動する。

こういう話をする人はほとんどいない。

それは能力がないとかではなくて

ほとんどの人が自分の可能性を信じていないからだと私は感じている。

 

自分はそんな難しいことは関係ないとか

自分はそんな頭よくないし、とか。

 

少し前に、信じることの大切さについてブログを書いた。

それを見ると信じるまでにすごく大変な思いをしなきゃいけないと

感じた人もいるかもしれないけど

「自分の可能性を信じる」という行為は

自発的に何かをしたら信じられるようになる、というよりも

むしろ社会の中で決め付けられてきたものごとを捨てていく

という事ではないかと思っている。

 

こういう文章を見た。

「日本は兵士を作る教育ばかりされて戦士を作らない。

兵士というのは言われたことだけをやる人たち。

戦士は誰かの価値観や命令から動くのではなく

自分で考えてより良い社会になるように行動していく人たち。

このどちらかが正解とかではない、バランスが必要だ。

日本は圧倒的に前者が多い。そういう教育がされるからだ」

というもの。

 

あの人は特別で私を含めほとんどの人は特別じゃないとか

こうしないと生活できなくなるとかバッシングされるとか

落ちずに、はみ出ずに生きることを教えられてきた。

それはそれぞれが持っている個性を自ら捨てていくようなものだ。

 

自分の持っている個性や力を抑えて生きているうちに

自分は何もできないと思い込むようになり

持て余した心で恋愛やネットをして時間を潰して生きていく。

それはあまりにも自分を低く見積もっているような気がする。

生まれたということを心から感じる機会を自ずから狭めている気がする。

 

こんな自分は、とか、どうせ自分は、とか、やめにしよう。

人間の能力はそこまで大差がないと私は思ってる。

すごそうに見える人というのは、考え続け行動し続けた人だと思う。

すごい人だから続けられるんだ、とも思わない。

多くの人が考え続けられなかったのは、行動し続けられなかったのは

自分の資質に合ってない、

周りの目を気にして選択した場合が多いのではないだろうか。

 

生きることも何かをし続けるのも楽しい喜びばかりではない。

けれど、自分が決めた目的に向かって自分が今を生きているということは

困難にも勝る喜びだと私は思う。

それが人間として生まれた喜びのひとつではないかなと思う。

 

そして世界的には

目的を自分や家族という小さい単位を超えて

社会や世界という大きな単位での平和や貢献を視野にいれて行動し始めている。

日本で大きなことをいうと痛い人間、綺麗事な人間の扱いをされがちだけど

痛い人間、綺麗事人間で結構じゃないか、と私は思う。

 

欠点は欠かせない点という言葉を見た。

欠点がない人間はいないように

欠点は裏を返せば魅力が隠れているということだ。

ひとりで頑張ろう、ひとりでなんとかしなきゃいけないというのを外していきたい。

同じ大地の同じ社会の上で生きている人間同士なんだから。

 

10代や20代はわからないけれど

30代以降は可能性を削られ自分を抑えるように教えられる事が多かったように思う。

それがあなたのためなんだと教えられてきた。

大きな成功もしなくていいから、失敗はしないように、大人の言った通りに。

そういう呪いや鎖を外していきたい。

どんどん息苦しく身動きがとりづらくなっていってしまうから。

なぜ身動きがとりづらくなるか。それは自分の判断で生きていないから。

呪いの元に善悪を判断しているに過ぎないから。

そこを超えていかないといけない。

それはとても勇気がいると感じることだ。

それでも多くの日本人がみんな同じようにその呪いをかけられてきた。

そういう点では、みんな自分が思ったことをいうのが怖い、

多くの人が自分が思った行動をするのが怖い。

自分だけが怖いわけじゃない。

 

失敗しないと何が悪かったのかを学ぶことができない。(他者の失敗も、馬鹿にするのではなく学ぶことができる。)

それぞれの道を行かないことには、

それぞれの経験を聞くことができない。

みんなが同じことを考えて、みんなが同じような行動をするなんて無理がある。

それで確かに経済的に日本は中流階級といわれる人が多くなったかもしれない。

多くの心を犠牲にして。

そして長い間、日本の賃金はあがっていない。景気は良くなっていない。

1億総中流階級は崩れたとも言われている。私も崩れていると思っている。

という事は、無理をしてきたやり方は続けていても通用しないということだ。

 

行動せずに羨むような舞台からは降りよう。

そんな役を与えられるために生きているわけではない。

自分の舞台でスポットライトを浴びて生きるんだ。

可能性の花は枯れない。生きている限り。

 

現実は複雑だし不正確だし

よりこの先、混迷を増すのはわかりきっている。

それは事実なので誤魔化すよりもしっかり見つめたほうがいい。

けれど現実がどうあっても、自分がどう生きるかは幸い決めることができる。

これが大きな希望だ。

私たちは北朝鮮にいるわけではないし奴隷でもない。

現実がどうであれ自分をどう活かすかを考え決めることはできる。

その勇気がないだけだ。勇気がないのは弱いからではない。

勇気を出さないための教えがいくつもされてきたからだ。

その鎖を断ち切るのは自分の仕事だけれど

それを応援する人や支持する人は思っている以上に多い。

ここにも(私)いる。

私は私のしたいこと、しようと思うことを

今後もっと伝えていきたいし行動していきたい。

 

みんな似たようなものだ。

思うことがあり、やりたいことがあり。

それを見つめあい応援しあい手をとりあう

たかだかひとつの命なら、自分にプレッシャーをかけすぎず

軽やかに行動できたほうがいい。

環境が大切だ。自分を殺す環境からいかに離れて

自分を生き合う環境に移動するか。

これがまだまだ、簡単なことではない。

それぞれの挑戦や勇気を見つめあい

手をとりあえる世界になってほしいと私は思っている。

だからそういう世界になるように、私にできることをする。

私のすることが世界の中ではノミより小さい成果だとしても

生きているのだから、やりたいことを行動に移していきたい。

そういう関係性を増やしていきたい。

 

そんなことを思った今日。