飼っているうさぎをみていて、私が思う愛の形を考えた。
私の家のうさぎは春がきたら12歳になる。超高齢うさぎだ。
牧草を食べなくなって何年も経つが無理にあげないで食べたいものをあげてきた。
歯のカットが必要になるので、1ヶ月半に1度歯をカットしにいく。
全身麻酔をかけたりするので2万近くしてお財布が断末魔の叫び声をあげるのだけど
歯が伸びて食欲を無くすと命に関わるので連れて行く。
最近は夜中にご飯を食べるようになり1日に2,3回起きてご飯をあげている。
動物を飼うっていうのは本当に楽じゃない。
1回の病院代でうさぎの本体価格を超えている。
夜中でもご飯をあげたり、食欲がない時は数時間ごとに強制給餌したり。
それでも自分が好きで飼ったことなので、何かがあれば全力で面倒を見る。
それは自分が後悔しないためでもある。
そして普段私はうさぎにあまり触れない。
たまになでなでする以外は放っておいてる。
好きに動けるように小屋を二つつけて広くしている。
基本的にのびのびと好き勝手に過ごしてもらう。
これが長生きした秘訣なのかもしれないと思っている。
これは私が好ましいと思っている愛の形なのかもしれない。
干渉されたりコントロールされるのが好きではないので
身近な人や動物や植物にも干渉しすぎない。
必要なこと以外は見守っている。
恋愛は恋しい気持ちや不安や嫉妬など、様々な気持ちになる。
ロマンスに浸かりドーパミンが流れて。
うだつのあがらない自分、不満のある自分をごまかせる。
でもそれは愛ではない。自分のための愛でもない。
悪い酒と同じでごまかすために使うようなもの。
酔っている時はいいけれど
シラフになると途端に自分の人生が自分に突きつけられる。
自分の人生は自分に用意されている。
その自分の命を使って、自分が心動かされるものをしていく。
立派な事をする必要はない。意識なんて高くなくていい。
自分の気持ちから目を逸らさないことが大切だ。
目を逸らす時期があったって構わない。
けれどなるべくなら気がすんだあとに戻ってきてほしい。
気持ちが晴れないまま生きていくのは辛いことだからだ。
愛の存在がすごいのはきっとひとりでは出せない力を出せるからかもしれない。
愛するものがあると人は守りに入るようになるというけど
私はあまりそう思わない。
愛は守らなければ壊れてしまうものではないと思う。
何かを維持しようと執着するから守ろうという気持ちがわくのだ。
維持しようと執着する場ではなく、安心して旅立てるような場になった方がいい。
こう書くと菩薩のような人に見えるかもしれないけど
私がそう思うに至るまでには不安や嫉妬やロマンに渦巻く恋愛を重ねたからだ。
それを繰り返した末に
愛とは自分の快楽やごまかしの場ではないのだということを
身近な人から身近なペットから思うに至った。
安らげる場所がある時、安心して人は自分の持っている力を発揮できる。
どちらかひとりだけが安心するのではなく
お互いが安らげると、お互いが人生の力を出したい場面で力を出せる。
その人の条件がどうとか、その人が何を持ってるかとかはどうでもいい。
ただその人がその人でいるだけで、価値がある。
全てのものが本来そうなのだ。存在しているだけでいいのだ。
やりたいことがあればやるのがいいし、ないならやらなくていいのだ。
別にやりたいことがある人生が素晴らしいわけでもすごいわけでもない。
互いを見守りながら、自分の人生のやりたいことをやること。
コントロールしたり口を出したりしない。
何かあれば全力で力を渡すこと。
そういうところが、私にとっての身近なものに対する愛なのかもなと思った。