ハンナアーレント特別講義
悪とは何か。
映画「ハンナ・アーレント」を見た。
ドイツ出身のユダヤ人であるハンナアーレントは
ホロコーストの中心人物であり多くの人の命を失わせたアイヒマンという男に対して
彼は悪魔的な人間ではなく
思考することをやめた、小役所の人間でしかなかったと説いた。
そしてそれを「悪の凡粛さ」と説いた。
ハンナもまたホロコーストに収容されたことのある被害者のひとりだ。
そしてハンナはユダヤ人の中にもナチスに
協力していたリーダー的存在がいる事を雑誌に記載した。
その事でハンナは多くのユダヤ人から中傷され、友人も離れていく。
彼女は事実を書いただけだ。
その事実が、当時のユダヤ人にはあまりにも受け入れることが出来ないものだった。
この受け入れたくないものを突きつけられた時に
迫害や差別や中傷をしてしまう弱さが人にはある。
日本人であることを誇りに思い
それが自分のアイデンティティと同化しすぎている人の中には
日本を批判する人に対して嫌なら出ていけというが
それと似た弱さを感じた。
親であっても、友であっても、完璧ではない。
完璧でない人が作り出す国家なら、なおさらのことである。
不完全でないものに向き合い、知ろうとし、理解することは楽ではない。
完全と書かれた鎧を着て、それを誇りだと思い塞ぎ込む方がよほど楽ではある。
自分が愛したものの不完全さを受け入れたくないのは
自分自身を受け入れられないのと似ている。
不完全さを受け入れ、修正していく姿勢をもつ方が
はりぼての完全さに身を守るよりも勇気ある行動だと私は思う。
アンナの中立性はすごいものがある。
自分もユダヤ人で、ナチスからの被害にあっていた立場にもかかわらず。
そして同じユダヤ人から
俺たちを馬鹿にしてるのか!傲慢だ!と言われ続け職を追われても
そこにひるむことなく、事実を、悪を自分の感情からではなく
冷静さでもって追求しようとする姿勢。
このブログの一番最初に載せた
アンナの特別講義を受けた若者たちは
アンナの主張を好意的に受け止め拍手を送っていた。
未来はアンナの側にたつことが示唆されているようだった。
こういう事は当たり前に起きてしまうと思う。
人に感情が、心がある限り。
最近、私は死刑囚の人について調べることがあるけれど
それについても感情が先立ってしまうとあんな人殺し!となって終わってしまう。
アンナのセリフにに共感したのが
「理解することと許すことは別である」という言葉。
私たちは人間である以上、人間が犯したことを理解しようとする必要がある。
それは人間が社会を構成しているメンバーだから。
あたしは関係ない知らない、ではない。
あたしも、凶悪犯も、誰も、社会の中に存在しているのだから。
社会や人に衝撃を与えるほどのことをした人ならなおさらに理解が必要だ。
なぜなら、第二、第三の同じ人を増やさないために。
増やさないことが、平和な状態に繋がることだから。
だから積極的な理解が必要なんじゃないかと私は思って調べている。
許さなくてもいいし許せなくてもいい。
しかし知ることを放棄したとき、理解を放棄したとき、
同じ過ちを繰り返す可能性が高まる。
学んでないからだ。
アンナは「思考の風がもたらすものは知識ではなく
善悪を区別する能力であり美醜を見分ける力です」と語った。
思考の停止が、アイヒマンのような衝撃的な犯罪に繋がる。
考えることを止めてはならない。
これは、難しい話というよりも希望の話だ。
許すことは難しい。
けれど知ること、そして思考すること。
これはお金が必要なわけではない。
特別な人が出来ることでもない。
多くの人に出来ること。
私も、あなたもやってきたこと。
その当たり前にしてきたことが実はとても大切なことで
それを放棄してしまうと、こんな悲劇がもたらされてしまう。
思考を放棄すると感情で傷つけ合うことにもなる。
ついつい日常に忙殺されていると
わかりやすいこと、とか、すぐ理解できるもの、に流れてしまう。
けど、自分の頭で考え続けることの必要性と
勇気をこの映画からもらった。
しょへさんに前々から「この映画はあなた見た方が良いよ」と
言われていてようやく見れたが、めちゃ良かった!