好き勝手に生きてるように思えて
自分が本当はやりたいと願うことほど
後回しにしていたなと最近気がついた。
本当はやりたいことって、自分の中で勇気がいる。
簡単にやれることや慣れてることをついつい選択しがちで。
でも
いきなりいなくなってしまった人達の存在を体感したりする中で
どんどん自分の中の「本当は」の声がでかくなっていってたみたい。
最近、あぁもうやりたいことやって死ぬしかねえなって気持ちになった時に。
「本当」と顔を突き合わせて俺はもうここから逃げないぞって思った時
心の中にヒヤリとしたドキドキにも不安にも似た気持ちを味わった。
「この怖さのような気持ちはなぜ存在しているんだろう」
「なぜ不安を溜めながらやりやすい事を選択しながら
本当を後回しにしているんだろう」
今までだったら進化に不安はつきものだからという答えに行き着いていたけれど
この間すごく納得する答えを見つけた。
それは不安が高まった方が面白いからだ。
ジェットコースターが高ければ高いほど、落下速度が速いほど興奮するように
不安とそれは私の中で全く同じ構造だった。
不安が高まるほど、自分の中でぐつぐつと煮えるほど味わうほど
不安や恐れという階段が積み重なっていく。
それが積み重なるほどに飛び降りる高さがあがっていく。
不安であればあるほどそこから飛び降りる時に興奮する。
死ぬんじゃないかってくらい高いところから落ちたら面白いだろうなあ。(いやこれは比喩であってバンジージャンプはしたくないですええ)
この興奮のために不安と恐れを抱いていたのかもしれない。
なんとも変態的な発見でそれにも興奮した。
私の中の変態性はここにあるな。確実に。
ヒヤリとすることほど面白い。
生きてるって感覚がする時は、死と隣り合わせなように
危険だと認識することほどそこから飛び込みたい期待が高まる。
確かに進化への不安や怠慢はある。
だけどそれだけではない何かがあってそれを探れなかった。
なぜ私は新しい面白いことが好きなはずなのに
本当に望むことを後回しにしてきたんだろうという疑問。
その答えが解けた気がした。
三島由紀夫の短編小説「憂国」を読んだ時の恍惚と興奮は忘れられない。
読後、時が止まり、「とんでもないものを見てしまった、、」と呆然とした。
とんでもなく、面白く興味深いものだった。
内容をざっくりというと
若い夫婦が切腹する前に最後のセックスをしてその後に自害するという内容が
丁寧に書かれていた。
死を前にしたセックスの興奮とスリルはどれくらいのものだろうか
いや、むしろ非常に静的なものになるのだろうか。
そんな想像をしながら
空の三島由紀夫に向かってくそ変態野郎じゃねえか!と思った(褒め言葉)
最高の物語をありがとうございますなむなむ。
この憂国で得た興奮も、死と隣り合わせによる興奮だ。
ここと似たようなジャンルなのだと思い合点がいった。
ああ、自分を知るということはなんと時間がかかる!
またここから別の発見をすることでしょう。
三島由紀夫の作品の魅力は言語化しにくいが確実に存在する
人間の絶妙な愚かさとマゾヒストなところにある。
マゾといっていいのか、しかしサドとはマゾに集約されていくものだと感じる。
サドはマゾなしには成り立たないからだ。
SMについては全然歴史的なものを知らないのでただの素人の考察でしかないが。
長くなったのでここらへんで。