敵か味方か、
本来そんなものはないし、
戦うから争いは終わらない。
正解か間違いか、
本来そんなものはないし、
そこに固執するから苦しみは終わらない。
何か問題が起きた時に
そんな当たり前のことをわざわざ口にして
自分はどちらにもつかないという立場を取る人は
私はあまり好きではない。
こういう時の白にも黒にもつかずは
平等とは思わない。
人がくだらないことで争い
人がどうしようもないということなど
わかりきっている話だからだ。
美しさだけで人間は出来ていない。
例えば自分の親しい人間が
理不尽な事で傷つけられ、苦しめられても、
争いになるのはよくないからと口にして
憂いのある表情を見せながら、
何もせずにいる事は私には出来ない。
人には、
味方であってほしいと願う時がある。
本当に弱っている時や、
窮地に追いやられている時。
そんな数少ない場面の時に
一番味方であってほしいはずの人に
敵の言うことも一理ある。
まあまあ、そこまでのことか?
などと言われたら。
私だったら、
その人との親しみをもつ人間関係は
そこで終わりにするだろう。
一本の映画が終わるみたいに。
表面的に付き合いは続いたとしても。
傷ついた人の気持ちにはなれないけれど、
その気持ちを正論で無視したくない。
近しい人ならなおさらに。
しかし、仮にそう言われたからといって、
そういう立場をとる人間もいるからといって、
その人に裏切られた訳ではないし、
被害者になる訳でもない。
正論を無視して損をとる時があってもいい。
くだらなさの中に飛び込んで傷つく。
本来傷つかなくても良い場面で。
そういう馬鹿をとりたい時がある。
そういう人が好きだ。
映画の台詞であった、
馬鹿にならなきゃ歴史は変えられん
という言葉。
これは正しさの話ではなく美徳の話だ。
どういう立場で生きていくかという話だ。
銃を持った人間が愛する人を狙う時、
何もせず愛する人が殺されるか、
銃を持つ人間を殺すか、
争いは見たくないと自分が死ぬか、
どれをとるかという話だ。
選択肢は、その三つ以外にはない。
一瞬でどれかのボタンを押さなければならない。
あなたはどれを押す。
それであなたの美徳がわかる。
この三つの中に正解はない。
さらにいえば銃を構える相手の向こうには
その人の愛する人がいるかもしれない。
信念に従って押せばいい。