羊羹は消費期限が早い。

お世話になっている人に

いつもお世話になってるので

ささやかながら何か渡したいなと思っていて

でもそこらへんのよくある物もな…

むしろ、私がこれ好きなので!的なやつ

がいいなと思っていて悩んでいたのだけれど

前に家族で浅草に行った時に

お爺ちゃんが好きだったという

舟和の芋羊羹を食べたら本当にうまー!!

だったので

それを渡したいと思いつつも

浅草に行く予定が…と思いつつ買えずにいたら

今日ふらっと立ち寄ったデパートで

今日の曜日限定で舟和の羊羹が売っていて

これやがなああああ!!!!と大興奮で購入した。

という一日。

私は芋羊羹ではなく干し芋をこの後食べます。

芋づくし。

 

時差的な

バレンタイン近辺は気分が魔界級に落ちていたので

今更ながら生チョコ作った。2つ。

あまちゃんだった。

なんだかなぁあ、なんかなぁぁ、

なぁぁんか解せねぇなと思うこともちらほらあるにはあるが

それはそれでちゃんと自意識を持って生きているからかなと

感じる今日この頃。

いやだなと最初に感じたことは正直な気持ちなのだから

折り曲げないで「いやだと思ったな」と思うことにする。

被害者意識で生きないように気をつけたい。

綺麗だね。

或いは明け方に目が覚めた時の沈黙のように

当たり前にずっと君が心に住んでいるということ

夕焼けのオレンジと闇の暗がりが飲み込み合うように

心細さの中にこそ君への想いの強さを自分自身で思い知るような

 

或いは同じタクシー会社の車がすれ違う時に

微笑んで目配せをしあうように

会話をやめて心を重ねるように体を重ねるような

 

それは優しさの中にも 不安の中にも

喜びの中にも 嫉妬の中にも

自分自身の嵐の中に 朝方の色の薄い日差しの中に

色彩が散りばめられたように

濃淡は増して

世界は美しくなる

綺麗だね。

君がいる僕の世界は

正しい喧嘩

仲間と、今後の事について数日LINEで口論していた。

こういう時、さてどうしたものかと

合間にひとりで考える。

私は本当の反対なのか、

意図を汲み違えているのか、

自分が意地になっているだけなのか、

このどれに該当するかは自分を眺める時間が必要だ。

 

「今の私の気分は歩いていたら

いきなり後ろから石を投げられたようで

君の姿勢は非常に心外である」

と伝えると

「気遣いとか面倒だからと言わずにおいたことを、

今後は一切やめにする。」

という内容の言葉が届き、

「なるほどそれは面白い。」

そう感じ

「顔を合わせて話した方が良さそうである(表出てこいや)」

と伝え、直接会って真意のほどを話し合った。

 

「察してくれ」という気持ちは無責任であるという事と

事なかれ主義では良いものは作れないという二点に

私も共感したため、今後の方向性の一部を見出せた。

 

こちらが誠意を見せて話しをしても

押し返される時がある。

反対に、私自身もそうであるかもしれない。

 

普段の日常生活において

多くの他人に対して諦めるという事を、

私は最近学んだ。

近かろうがなんだろうが

自分の本心について話をするのをやめた。

気持ちの話しばかりをしたがる私にとって

この変化は衝撃であった。

過去の自分の中でも、それだけは選ばないだろうという

選択肢だったからである。

「諦めるのかよ!」と声をかけたがる人もいるかもしれないが

わかりあえない人に対してそれでも諦めないということは

犬に対して「美味しいからお食べよ」といって

チョコレートを食べさせるようなものなのだと気づいた。

全然伝わらない例えをしてしまった気がするけれど。

ある種、暴力的な事でもあるのだと

反省をしたという部分もある。

 

けれどそれを放棄してはいけない場所もある。

自分の美しいと思うものや苦しみについてを

制限せずに伝えた方が良い場所もある。

それが細部まで伝わったかどうかは問題ではなく、

そこで自分が本心から誠実で居続ける

という事が大切なのだ。

音楽はそれの最たる場所だ。

その場所で私は思い切り息ができる。

自分が自分として存在して許される場所。

ここもそのひとつである。

 

 

喧嘩に正しさがあるのだとするならば

今回はかなり有意義な口論であった。

自分の正しさを最初(不毛ながら)主張しあっても

その後に自分の固執をやめ

互いに納得の行く着地点を見出せた時の

あの殴り合った後の爽快感みたいなものは

他人が他人であるということの醍醐味かもしれない。

ある一定の他人とわかりあうためには、

私にはある程度の摩擦と冷静さが必要なのだと感じた。

さすがに眠い。ぐんない。

道程

久しぶりのスタジオ。

みんなが真面目に話し合ってる中

ひろに遠近法カンチョーをお見舞い。

今年でこのメンバーで続けるの4年目だもんなぁ。

と感慨に耽り過去の写真をあさる。

全然違うジャンルの者達が集まったバンドだけど

それが故に杓子定規ではないすごいものを作り出そうぜ、

という気概でもって今後は自由にはみ出しちゃってもいい

それが伝わる世界観を作っていきたい。

何事も思い切りで、どばっとやりきりたい。

品行方正な人々の欺瞞。

久しぶりだね。

思ってもいないことを口走って後悔する癖は直ったかい。

僕は今日も歩く道のりについて考えていたよ。

僕の見る青空と

僕が飛べずにいる地上に挟まれて。

僕は最近、17年前に戻ったような気持ちになるんだ。

かといって、まるで戻ったとは思っていないよ。

時代は繰り返すといえど

螺旋階段のようにぐるぐると

少しずつ高さは変わっているんだ。

ちょうどその階段から見下ろした位置が

17年前だったといった方が適切だろうか。

こんなに自分が自分でいられる心地は

僕の中では初めてじゃないかな。

僕は今、片一方ではひどく絶望していて

けれど片一方では今までにない幸せを感じている。

この不思議なバランスを

なんと表現したら良いだろう。

君は鴨居玲という画家を知っているかい。

彼は人前ではいつも明るく笑顔をたやさなかった。

けれど彼がキャンバスに向かう時は。

それは彼の絵に触れてもらえれば説明はいらない。

その姿勢は僕の人生と少しだけ似た臭いがした。

彼は何度も死にたがったようで

彼の最期もその影響によるものだった。

死後も彼の絵は多くの、特に若者に支持されている。

僕もその支持している者のひとりだ。

僕には彼は決して不幸ではなかったように思うんだ。

誠実な結末だと感じるよ。

気の毒だとか可哀想だとか

そう結論づけて片付けたがる人は多いだろうけど

僕は概してそういう人々は傲慢に感じるんだ。

笑っている人は幸せで泣いている人は不幸だなんて

どうしてそんなに簡単に結論づけられるのか

僕にはわからない。

自分に真摯であり続けるということは

時に絶望的な気持ちになることでもあるけれど

そうあり続けたものにしか見れない景色がある。

彼は誤魔化さなかったのさ。

長くなってしまったけれど

近い臭いにどうして惹かれるのだろうか。

それが死んでいようと生きていようと

この気持ちは自分だけではないと安心したいのかしらね。

自分だけであるはずがないだろう。

近しい人々の誰ひとりとして

僕の苦悩に耳をかしてくれても

わかってくれる人がいなかったように

そしてその事が僕の心に諦めと同時に火をつけたように。

僕の本当の気持ちはここから遠くへ旅立つよ。

倒れた心をまた起こして。

幸せなだけの人生なんてちっとも楽しくないからね。

だから君が今完全なる幸福になかったとしても

安心しておくれ。

どんな気持ちも自分から生まれたものは大切にするんだ。

そしてそれを本当にわかってくれる人と共有するために

僕は歩き出すよ。

これを読んでいる君もまた

そういう人のひとりでもあるかもしれないね。

これもこれで楽しんでいこうと思うよ。

どちらにせよ僕らはこれが本望だと思える道を

歩むほかに道はないだろう。

また君に宛てるよ。

 

音の中で見つめ合う。

今日は魔界のレコ発ライブin渋谷ギルティ。

ギルティは相変わらずとても歌いやすかった。

久しぶりにバンドでライブやったけど、

この後ろからズンズン音圧が主張されて押されて

私もひとりで歌うよりも違う力が

湧いてきて声が出ている気がする。

これぞバンドだなと体で感じた。

IBUKIさんと。なんだかIBUKIさんがいるだけで

なんというか安心感が私の中で芽生える。。

小林さんと。前からとてもお世話になっていたのだけど

初めて一緒に音を出せた。

長谷川さんと。なんだか初めてじゃないような感じがして

不思議だった。またご一緒出来たらいいな。

星野さんと。いつも美しさと激しさのある音色が

素敵な星野さん。

 

バンドは独特の魅力があるな。

他では味わえない中毒性。

日常の言葉じゃないものを出せるからなのだろうか。

忘れるな

今後シ組の方で随筆、自伝のような

物書きをしていきたいと思っている。

昔、知り合いの人に

「どういう人生を歩んできたのか知りたい」と

言われ、大したことはないと思っていたのだけれど

やはり思うことは沢山あった時間だったとも思う。

なので正直な言葉にしたいなと思っている。

明日は魔界で私は歌をうたってくる。

 

あの人は頭を抱えながら歌っていた。

絶叫とも呻きとも言えない声を出した時

喉からでているのではなかった。

体から奥から過去から今までを

振り絞って吐き出しているようだった。

多くの人は圧倒されてそれまでのノリを止め押し黙っていたが

その中で自分の苦悩と重ね合わせた人が何人もいただろう。

「自分がそこにいる」と思った人がいただろう。

「自分が出せなかった心の声だ」と感じた人がいただろう。

あの人は誠実な人だよ。

自分に無理をして

思ってもいないことを言葉にしている時でさえ

あの人の本当は汚されていないんだ。

なぜって、ずっと心の中にいる自分の声を

殺さずに生かしている人だというのがわかるから。

表情からも言葉からも声からも。

歌で格好をつけようとしていないところから滲みでている。

あの人はこの先もずっと誠実で純粋で。

そういう人だよ。

 

僕から君へ

人はいつか死ぬ。

人はひとりだ。

ふたつがひとつにはなれない。

どんなに頑張っても

どんなに金を稼いでも

どんなに愛し合っても

どんなに幸せになっても

いつかそれを全て投げ出して

終わりにしなければならない。

それはとても虚しいことだ。

だけどこれは絶対に揺るがない事実だ。

だからと諦めて生きるのは

だからと根無し草のように生きるのは

だからと全てを投げ出すには

人生はあまりにも長い。

僕と出会った君。

僕たちは別々の人間だ。

僕はそれがあまりに悲しい。

ひとつになってしまったら

君という人に触れられないからと

言い聞かせても

僕と君が違うことが悲しい。

その事で何度か僕は君に感情的になった。

君はこんな僕を不思議に思うだろうか。

僕がこう思うのは

僕があまりにも孤独だからだ。

芸術家の中には少数

そうでなければならない人間がいる。

僕は世間の人が口を揃える幸せは

全然幸せなことと思えないんだよ。

けれど世間の人の心の奥底の本音には

僕の心は震えるんだ。

その奥底の本音を

この体で表現し続けるのが僕という人間に

与えられた役割だと思っている。

僕は最近随分と苦しんで

ようやく確信に至った。

世間の人々の中には

奥底の本音を押し殺して

自分ひとりで苦しみを背負って

社会の中で生き続ける人や

自殺してしまう人がたくさんいるだろう。

音楽というものは

いつだってそういう繊細で優しい心の持ち主に

寄り添ってくれるものなんだ。無条件で。

見放さないものなんだ。

僕の中の、音楽というものはそういうものだ。

僕が作る、音楽もそういう類のものだ。

そう思いながら生きているから

孤独が終わることはないのだと観念したよ。

これは僕なりの誠実な恋文だ。

この孤独を背負った上で君に伝えたい。

君が好きだ。

心情を味わう

今日は邦楽を聴きにいった。初。

外が庭園だったので最高に雰囲気が良くて最高だった。

庭園でお茶とか飲みたい。

クイズとかもあって楽しかった。

2択だったんだけど私はほぼ不正解で、

私ひとりだけ不正解とかもあった。恥ずかしかった。

虫の鳴き声がする笛の体験に立候補して吹いた。

お客さんの手拍子と演者の太鼓と一緒に合わせて吹いて、楽しかった。

あとは蝶々の小道具を演奏中にひらひらさせる所があって

途中でその蝶々をつけてる棒がひっくり返って

死んだ蝶みたいになってしまってて

演奏の終わりに堪えきれずに

お客さんと演者とみんなでぶふぉーって吹きだしたの

めっちゃ面白かった。

邦楽を楽しく知ってもらうというコンセプトの通り

和やかで楽しかった。

邦楽での効果音の解説も

私のやっている音楽にはない部分ですごく勉強になった。

むしろいれたら面白いかも。

雪の降る音を太鼓の音で表現してたのだけど

雪が降ってる様、という効果音じゃなくて

「雪の降り積もる日は音がしないため

周りの音がせず自分の心臓の鼓動だけが聞こえる」

という意味合いらしくて、

もうそれ効果音ていうかそれだけでドラマ!と感じて唸った。

終わってから他の楽器も触らせてもらった。

歴史とか太鼓の楽譜とか色々教えてもらった。

もう一つ知りたい事があったので

今度聞きたい。

一個聞くと「なんで?なんで?どうして?」病が

止まらない。

たい焼き美味しかった。