仲間と、今後の事について数日LINEで口論していた。
こういう時、さてどうしたものかと
合間にひとりで考える。
私は本当の反対なのか、
意図を汲み違えているのか、
自分が意地になっているだけなのか、
このどれに該当するかは自分を眺める時間が必要だ。
「今の私の気分は歩いていたら
いきなり後ろから石を投げられたようで
君の姿勢は非常に心外である」
と伝えると
「気遣いとか面倒だからと言わずにおいたことを、
今後は一切やめにする。」
という内容の言葉が届き、
「なるほどそれは面白い。」
そう感じ
「顔を合わせて話した方が良さそうである(表出てこいや)」
と伝え、直接会って真意のほどを話し合った。
「察してくれ」という気持ちは無責任であるという事と
事なかれ主義では良いものは作れないという二点に
私も共感したため、今後の方向性の一部を見出せた。
こちらが誠意を見せて話しをしても
押し返される時がある。
反対に、私自身もそうであるかもしれない。
普段の日常生活において
多くの他人に対して諦めるという事を、
私は最近学んだ。
近かろうがなんだろうが
自分の本心について話をするのをやめた。
気持ちの話しばかりをしたがる私にとって
この変化は衝撃であった。
過去の自分の中でも、それだけは選ばないだろうという
選択肢だったからである。
「諦めるのかよ!」と声をかけたがる人もいるかもしれないが
わかりあえない人に対してそれでも諦めないということは
犬に対して「美味しいからお食べよ」といって
チョコレートを食べさせるようなものなのだと気づいた。
全然伝わらない例えをしてしまった気がするけれど。
ある種、暴力的な事でもあるのだと
反省をしたという部分もある。
けれどそれを放棄してはいけない場所もある。
自分の美しいと思うものや苦しみについてを
制限せずに伝えた方が良い場所もある。
それが細部まで伝わったかどうかは問題ではなく、
そこで自分が本心から誠実で居続ける
という事が大切なのだ。
音楽はそれの最たる場所だ。
その場所で私は思い切り息ができる。
自分が自分として存在して許される場所。
ここもそのひとつである。
喧嘩に正しさがあるのだとするならば
今回はかなり有意義な口論であった。
自分の正しさを最初(不毛ながら)主張しあっても
その後に自分の固執をやめ
互いに納得の行く着地点を見出せた時の
あの殴り合った後の爽快感みたいなものは
他人が他人であるということの醍醐味かもしれない。
ある一定の他人とわかりあうためには、
私にはある程度の摩擦と冷静さが必要なのだと感じた。
さすがに眠い。ぐんない。