生きづらさは正直者の証。

何気なく普段を生きていると

ごまかすのが自然になってくる。

とりあえず楽しい方がいいからとか

悲しくしてても仕方がないからとか

そうやってわいてくる気持ちに知らぬ顔をするのがうまくなる。

 

「感情と事実は全く別のもの」

この二つを一緒だと思い込むと人生は厄介になる。

感情に支配されて行動すると被害者意識などが生まれる。

なのでここは自分のためにも相手のためにも意識しておきたい。

 

とはいえ、

わいてくる感情には必ず意味が存在する。

それはたまたま疲れが重なっているだけということもあるし

昔に癒えずに放置していた傷が疼いたということもあり得る。

その時に自分が抱いた気持ちに敏感になり

そこの原因を探ることは

本来の自分を知るとてもいいきっかけになる。

いやむしろそれをしないとなかなか自分の癖や性格には気づきづらい。

 

感じることには必ず理由が存在する。

そこを痛むからといって見ないふりをすることは

自分という存在を無視しているのと同義かもしれない。

私が易しい歌ばかりをうたわない理由はそこにある。

むろん、易しい歌の役目も必ず存在している。

けれどそれは私の役目ではない、と思っている。

 

できるならば避けたいと思うような胸の痛みや

それはおかしいんじゃないかと思う疑問なんかは

実はとっても大事なシグナル。

嫌っても嫌ってもそいつは生きてる限りなくならない。

それならばいっそ認めた方が良い。

認めて観察する。

自分が何に怯え、傷つき、怒りを覚えるのか

それを知ることは大事な武器になる。

知ることで対応を考えることもできるし

自分という人間の特徴を知ることができる。

 

自分を生きていくためには

自分をなるべく細かく知っている方が良い。

自分の取り扱い説明書とでも言おうか。

一番長く一緒にいるのは親でも友達でもない、自分自身なのだ。

そいつの得意、不得意を知っていて損はない。

長く生きていれば自分とわかりあえない事もあるだろう。

そのたびにまた自分を知っていけると思えたら

無駄なものは何一つないように思える。

 

時折やってくる胸の痛みや怒りに対して

「笑顔でいよう」「明るくなろう」「幸せになろう」と

無理に自分の声を無視して易しい方へ流れたくなる時がある。

いや、体力や気持ちが弱っている時は易しい方へ流れた方がいい時もある。

一時的な逃げというのも、大事な戦略のうちのひとつだ。

 

けれどひとつだけ逃れられない事実がある。

「自分自身からは決して逃げられない」ということだ。

それならば自分となるべく仲良くなった方がいい。

私はそれを意識するようになった時、

「気力体力が疲れている時に考え事はしない。

仕事だと思って休む」という事を決めた。

それを決めて実行しただけでもだいぶ物事を進めやすくなった。

 

生きている時間が長くなるにつれ

何かずっと、少しだけ重たい荷物を

いつも引きずっているような感覚になる時がある。

軽やかに何も考えず「はっぴー!!!!!!」と言える日はほとんどない。

 

それは自分ひとりの事だけじゃなくて

社会に対する問題意識や

自分以外の事についても考えているからだと思う。

だからこそ生きている喜びも感じられるのだけど。

なかなか年齢を重ねるほどに幸せなだけ、

悲しいだけ、と一色だけの単純なものにはなりづらい。

自分の作る音楽が誰かを勇気づけた一方で

誰かを苦しめていないとも言い切れないように。

何かを発するということは、良いも悪いも自分で受け止めないといけない。

知らないふりして発信だけする事はしたくない。

 

生きているそれだけで

喜びも悲しみも自分の一部として存在し続けるから

無理に頑張れない時に頑張ろうとしなくていい。

間違いを犯すこともあるだろうし

うまく生きられない方が多いかもしれない。

それでも自分を無視して生きるよりは

その気持ちを見つめている方が良い。

五分間だけでもいい。自分と対話しよう。

そこからしか見つけられないものがある。

見つけられた時に初めて、次の一歩が見えてくる。

 

付け焼き刃や対処療法では脆い。

生きづらさを感じる人というのは

心の正直な人なのだと私は思う。

正直な人であり美しい人なのだと思う。

繊細だという事は決して弱いことではない。

むしろ強い人だと思う。

生きづらく繊細な自分に苛立つ時もありながらも

それでもそういう人を見た時に

美しいと思わずにはいられない。

誤魔化して生きることができない。

だったらこのままの、ただの私で生きていこう。

誤魔化して生きることができない人のために

そのままの、ただのその人の心に届けよう。

 

職業病

三月二十七日。晴れ。

制作に少し見切りをつけた。

十やろうとしているものを二くらいに削ぎ落とした。

この方が焦ってやるよりも良い結果につながると思う。

捨てる時はずばっと捨てる潔さ。

 

本日は浜焼きを食べにいってきた!

でーん。これぞインスタ映えといったカニさん。

サザエやハマグリたち。最高でした。

一年分食べました。

カニさんと記念撮影。

 

帰りになんてことないポップスを聴いていたけれど

すごく頭が窮屈になる思いだった。

坂本龍一さんが前にインタビューで

「病気の時や後には音楽を聴く気になれなかった。

音楽を聴くというのは癒しではなくて

あれこれと考えてしまうものだから」

というような内容の事が書かれていて

それを思い出していた。

普通にどこにでもある娯楽の音楽といえども

そういうものを制作している立場としては

真剣に聴かざるをえないモードに

いやでもなってしまうから消耗が激しい。

生活に溶け込むような静かなジャズや

自分が愛していたりその時に欲している音楽は例外と付け加えておこう。