リアルを書く

九月二十七日。晴れ

珍しく六時間くらい作詞に費やした。

声を出して歌うため近所のカラオケに移動。

カラオケの中で歌って録音して聴く。

不合格ではないけど、合格とも言い難いライン。

大体六時間も費やすのだから

捻くり出してるのがすぐわかる。

捻くり出してる時は無理に作ろうとしてる。

大局観を失ってるというか。

でもその時にはもう気付いていて

それでも最後まで書ききる。

そうしないと不燃気味になるから。

カラオケで歌って

焦点が少しぼやけてるなあ

という感想を抱いた。

そして書き直そうと思い、後にした。

夕飯を作らずに作詞しようと思い

コンビニに行くと、

音楽が流れていた。

音楽を聴きながら、私は苛々した。

何も響かないな

私が聴きたいのはこういう

毒にも薬にもならないような音楽じゃないんだよ。

と思った。

そして携帯で見たニュースに

また苛々した。

なぜこんなにでたらめで

誤魔化しながら生きていて

のらりくらりといられるのだろう。

そんな事を思った。

そして、その曲の行きたい方角が

コンビニで流れていた音楽と

ニュースのおかげで決まった。

帰宅して早速書き上げた。

めちゃくちゃリアルになった。

リアルすぎかもしれない。

私は最近思う。

言いたい事を言っている音楽家でありたい。

自分の保身でも、周りへの忖度でもなく。

中途半端はもうごめんだ。

休日

九月二十六日。

何をしていたのか

一昨日のことなのに思い出せない。

あ、そうだった。

前日で気力体力を消耗したので

昼過ぎに起きて

近所のお寿司屋さんに行って

戻ってきて

洗濯物をしたり

買い出ししたり

作り置き用の料理を作ったりしていたのだ。

この日は音楽はお休みした。

声を保存する

九月二十五日。晴れ

歌録りをした。

三曲録音予定で、

一曲は行きの電車の中で歌詞を書き直していた。

めちゃギリギリ。

レコーディング自体はわりとスムーズに終わった。

ぐんさんありがとう!

終わってファミレスでぐんさんと

しょへと私で色々話し合った。

途中、しょへと言い合いになって

ぐんさんにもうしわけなかったけど

羽根もそんな事沢山あるよって言ってて

羽根とは海外も行った仲だし

レコーディングとか色々助けてもらって

もうみんなチームの一員みたいなものだから

言い合ってる姿を見せられる

仲になってるってことだな。

しかし来月の歌録りも迫りくるなか

まだ出来ていない曲が数曲。ひいい

ヒントは生活から外れた所にある事もある。

九月二十四日。曇り

打ち合わせを13時から17時まで日本橋にて。

その後、楽曲についての話し合いを夜まで。

その後、久しぶりにお蕎麦が食べたくなり

蕎麦屋に行って帰宅。

私の作っている彫刻をしょへに見せた。

今後やりたいこともポツポツ出てきた。

彫刻をしているととても面白い事を

思ったりする。

音楽にも通ずるようなこと。

それはまた別の機会に書こうかな。

色々なものが、

自分のしている事や生活を

別の角度から見るヒントになる。

そう思うと

彫刻もお茶もなくたっていいけど

決して無駄なものではないなって思う。

無駄にしたかどうかは 自分次第だな。

必要な生活をしているだけでは

見えてこない発見があったりする。

そして人差し指を彫刻で痛めて

少しおやすみしてるんだけど

一週間くらいしても痛い。

早く治ってー!

つくる

九月二十三日。晴れ

秋分の日。

明後日歌録りを四曲行う予定だが

二曲出来ていない。

一曲はトラックとメロディあり、歌詞がない。

一曲はメロディと歌詞あり、トラックなし。

作詞をし仮録音。

間に合うのか。。

間に合うのか!!!!!!

なかなかここまでぎりぎりになる事はない。

果物に非ず

嫌がることとわかっていて

どうしてあえて持ち込んでくるのか。

無言のままに秋の夜長に疑問を抱き

不快なまま床に着く。

ここから発つ想像をする。

心地の良い方へ。

人の中に子供のように純粋で厄介な自分がいる。

九月二十日。晴れ曇り

ひとつだけやることを終えたら

今日は好きなことをやる一日だと決めたので

食べたいものを食べた後で

甘いものと抹茶を点てて

彫刻をして映画を見た。

自分の中に潜っていくような感覚でひとり過ごした。

複雑怪奇でシンプルで繊細で大胆な生き物と。

アーティスト、アーティストと特別なもののように

いう人たちがいるけれど

アートは誰の中にもあるものだと思う。

ただそれを怪物のように煙たがって恐れて眠らせているだけで

本当は問題を抱えるように見える人や

深い闇を抱えているように見られている人ほど

自分の中のアートと向き合っているのかもしれない。

そのアートは本来は子供のように純粋だからこそ怪物にみえる。

日常生活を送るためには少し脅威に感じられる時もあるけれど

君の中に眠るアートな自分を誇りに思ってほしい。

思えないのならば私が。

自分の中に眠っているものを見つけるためには

ひとりの時間がとても大事。

ひとりでいる時でさえ様々なものからの影響は逃れられない。

様々な影響から成る自分という生き物が作品。

時々、人や物事と繋がっているホースを切って

自分に帰る時間が必要だ。

自分と作品は繋がっている。

それが時に困難な目に繋がるけれど

迷惑をかけずに生きていくことはできない。

他人にかける迷惑ではなく、自分自身に対して。

自分を苦しめる選択からいかに離れるか。

九月十九日。晴れ

人間関係、目の前に現れた出来事。

結局私は最初に感じた快、不快が

一番純粋で嘘がない部分なのかもしれないと最近感じる。

 

自分についている贅肉のようなものを

削げ落としていってシンプルにしていきたい気持ちが

ここ数週間で少しずつわきだしている。

自分が無理をしないと達成できないことから

いかに離れられるか。

 

無理には私の中で2パターンあって。

「これは無理そうな壁ではあるけど

そこに挑戦することとその先に対してワクワクしそうな無理」

「これは無理そうだしそれを挑戦することを考えると

ストレスになったり神経質になるまじ無理」

 

前者はどんどん挑戦していきたいけれど

後者に関しては、いかにそのものと距離を置きながら生きられるか。

今まで後者のことに関して

「自分がよくないのかもしれない、子供なのかも」とか

「自分さえ我慢すればいい」と

周りを気遣う気持ちがわいたりしていたけれど

 

例えばそれをした時に

そのあとに自分の内面にくるダメージというのは

自分が想像する以上に大きい気がしている。

そういう目に見えないダメージの蓄積によって

次第に自分を見失ったり

自分のやりたいことがわからなくなるような人が

増えたりするのかな、と想像する。

自分の心と自分の理性が友達関係だとしたら

友達が嫌がっているのに

「これをしないとだめだから!」とか

「ちゃんとして!」とかいって

辛いことを押し付けているような感じ。

そうすると友達である心の部分は

どんどん自分の理性と距離をとりだして

離れていって、わからなくなってしまう。

 

人に気を使ったり

目の前のことに真面目に取り組もうとするあまり

少しずつ自分にダメージが溜まっているとしたら‥

そのダメージをつけたのは

他人や嫌な出来事ではなく

それを選択した自分だ。

自分を守ってあげるのも、管理するのも

自分がしてあげるのがいい。

もちろん中にはそれを選べない環境にいる人もいるだろうけれど

それが嫌なのだと思うことを

自分に許可してあげるだけでもだいぶ変わってくるだろう。

「これが嫌なんだね。嫌だったね。

何が好きだっけ。好きなことこの後たくさんしようね」と

声をかけてあげるだけでも

ダメージはだいぶ変わるだろう。

 

例えば私の場合

自分に無理を課す生き方をなるべくやめたいと思ったのは

無理に何かを引き受けたり

居心地の悪い人と付き合うことなど

真面目に向き合いすぎることによって

ダメージが起こって

本来やるはずの音楽の創作や自分の活動に対しての

集中力が削がれたり

力がわかないとしたら‥

そんなのたまったもんじゃない!と思った。

 

そんな「たまったもんじゃないモード」にならないために

自分を本来の力がでるように

自分を理解して、守ってあげなければいけないんだな

それをすることは甘えだったり子供でもなんでもなくて

自分を生かすこととして

当たり前のことで、それが自分に対する責任なのだな

と思った。

 

 

自分の心の動きというのは

本来はとっても繊細で、

注意深く見つめていないとすぐにアバウトになってしまう。

自分とは死ぬまで一緒にいなきゃいけない。

それ以外の物事や人は、9割が死ぬまで一緒にいることはないだろう。

どんなことが違和感やストレスにつながるのかは

人それぞれだからこそ

自分のそれを知るだけで、だいぶ選択はシンプルになる。

選択が絞られれば、生き方もシンプルになる。

毎日起こるひとつひとつの出来事、

そしてそれによって動く自分の心に

注意深く目を配ってみようと思った。

みんな一緒に生きている。

私の家の近くには

色々な生き物がいる。

*最後に虫ちゃんが出てくるので

虫ちゃん苦手な人は注意であります。

 

昨夜、天井にホクロのようなものがついていて

何かと思ってみたらてんとう虫のようだった。

 

今朝起きても天井にいたので

「このまま天井にくっついていても

食べ物がないだろうなぁ。

かといって天井に手が届かないので

外に逃がすこともできないし。

やはり虫取りあみが必要かなぁ」

 

などと思いながら

洗濯物をしたり朝食の準備をしていた。

 

そして洗い終えた洗濯物を干すために

網戸をあけて準備をしていると

何か黒いものが私の目の前に

さっと現れて、驚いた。

 

ちゃんと目視できていなかったのだけど

天井をみるとてんとう虫がいなくなっていた。

 

恐らくてんとう虫は

外に出る機会を伺っていたのだろう。

そして私が窓を開けたのを確認して

外に出て行ったのだろう。

きちんと考えたり見たりしているのだろうかと驚いた。

 

昨日の夜

寝室にアダソンハエトリグモがいた。

この蜘蛛はしょっちゅう現れるので

もう同居人のような気持ちでいる。

 

アダソンハエトリグモは

よく白い壁にとまっていて

昨日もパトロール中だったのだけど

小さな黒い天の汚れに飛びかかった。

恐らく虫だと勘違いしたのだろう。

ただの汚れだとわかると

気恥ずかしそうにすごすごと歩いて行った。

(気恥ずかしそうに、というのは私が勝手につけた

感情なのだけれど)

 

またある日は、

お風呂場の天井にいた。

私はシャワーの水で蜘蛛が落ちてしまわないように

気を使って髪を洗っていたのだけれど

蜘蛛の方も濡れないように

気を張っているような感じがした。

 

そして私が髪を洗い終わるまで

同じ場所でじっとしていて

洗い終わってお風呂場を出ると

すごすごと動き出した。

 

元々私は虫が好きなのだけれど

この家に住んでからというものの

虫にも思うことや

考えがあって動いているのだということを

肌で実感する機会が増えた。

 

もはや道端を歩いていて見かけるような

通りすがりの他人のような存在ではない。

一緒に生きている

相手はきちんと生きている

意思のようなものが

人間のそれとは量が違っていても

存在しているのだと確かに感じた。

 

そして台風の中を過ごして

私は自然という箱の中で

生きているに過ぎないのだな

と思ったり

部屋の中に遊びにくる虫たちを

観察していたりすると

ますます

自分が存在していることは

とても分け隔てがないことなのだなと感じる。

 

そう思いながら生きていると

だんだんと感じ方にも変化が表れていて

 

今日洗濯物を干しているときに

ベランダに小さい蜘蛛が

巣をはっていることに気がついたときに

いつもなら

恐怖と嫌な気持ちになっていたのだけれど

この場所は私だけのものではないしなぁ

なんて思いが自然とわいて

嫌な気持ちにならなかった。

 

「蜘蛛よ、そこに住むことにしたのか」

と思った程度だ。

私は私で、ここで洗濯物を干す。

ただそれだけのこと。

 

夏にはたくさんの虫にあったなぁ。

秋はまた別の虫がやってくるのだろうか。

誰にも汚されない

あなたはこのまま今のままで完璧

不完全な部分を含めて完璧

ここから改変されていくところ

そして元に戻るところ

捨てるもの

全ての行程が完璧

私がそう伝えるよりも

自分がそう思えた方が何倍も意味がある

あなたはまだ気付いていないかもしれない

自分の素晴らしさ 美しさに

気づかないほうが魅力的だと

奥ゆかしいほうが魅力的だと

謙遜を要求する人間に負けないでほしい

親切な顔をして

あなたのことを優しく傷つける人間に

負けないでいてほしい

弱い女が 馬鹿な女が可愛いなどという

男に気を使わなくていい

そういう人間からは離れた方がいい

あなたが自分を愛して

あなたが自分の道を生きることを

否定してもいい人間など

この世にひとりとして存在しない