だんまりをやめた世界

 

香港の若者達を筆頭にした政治運動も

グレタさんをはじめとする環境運動も

きっとこの先、若い人たちの行動はもっと活発になるだろう。

そして日本はどこかそれを他人の出来事として見ていたけれど

おそらく日本でも同じような流れになる事を感じている。

数日の検察庁定年に対する反対派の多さを見てもそう感じた。

 

ツイッターに少し書いたけれど

検察庁の定年に関しては、公務員の定年の延長という声もわかるけれど

ここまで反対されるのには政権側を不信に思う人が多いからだと感じる。

私自身は、少し前に森友学園の問題で財務局の方が自殺したことに関して

政権側が「残念だが調査には問題がない」というコメントを出したことに

とても悲しくなった。

人が亡くなったという事実に対して

なぜこんなにも淡々と言えるのだろうと違和感に思った。

 

死んでも仕方がない命というのはあるのだろうか。

命を無くしたものが弱かったのだろうか、甘かったのだろうか。

どんな事柄に対しても心や命が粗末に扱われる事に関しては疑問を持つ。

そこだけは軽視してはいけないと感じる。

この事に関して右派も左派も支持政党も関係ない。

思想は行き過ぎると人を盲目にさせる。

右派も左派も過激になり自分の思想を盲信すると

命よりも思いを優先するようになる。

私は三島由紀夫の「生命尊重ばかりで魂は死んでも良いのか」

という言葉がとても好きだけれど

生命と魂はバランスに気をつけなければいけない。

魂ばかりが尊重されて

命が軽視されてはいけない。

 

私は政権側の血の通わない言葉に胸を痛めたが、

コロナの事に関しては精神論や美しい言葉が目立った。

この事にも若干の疑問を抱いた。

確かに乗りこえる努力をするのは国民がすることだ。

けれどこんなにも生活の不安が拭えない人たちを目にする。

生活の不安は置いといて努力をまず先頭に置いたとして

努力をしている最中に死んだのなら名誉ある死なのだろうか。

仕方のない死なのだろうか。

自殺するものが弱かったのだろうか。敗者なのだろうか。

 

 

実践の伴わない綺麗な言葉には注意する必要がある。

それは政治だけではない。本でもそうだ。音楽でもそうだ。

綺麗な、もっともらしい言葉で煙に巻かれてしまう人も多い。

自分の頭で考えるんだ。

自分の心で感じるんだ。

違和感に思ったことは、それはあなたにとっての真実だ。

けれど感情の勢いが出すぎたものには一定の距離感も必要だ。

どんなに正しいと思えるような声があがったとしても

だんだんと暴力的なものもその声の中に含まれていく。

人間は自分が正しいと信じた時に一番暴力的になりやすい。

正しさの主張とストレス発散を混合させている人もいる。

そして結局、同じ穴のむじなになる人たちは多い。

だから私は、違和感に思うことやおかしいことは口にしながらも

自分の醜さや愚かさについても同じように感じる事をわすれない。

自分の良心を暴走させてはいけないから。

 

人の良心はつい、他人を誘導させようとしてしまうものだ。

私も良い思いをしたし、きっとあなたも良い思いをするはずだと。

それは宗教の勧誘でもそうだろう。

自分が良いと思うものをみんなも信じてやれば良くなると

人は信じたいものだ。

けれどそれが行き過ぎると暴力になる。

頷かないものは敵とみなし

声をあげないものは賛同とみなす。

民主主義というのは多数決ではあるけれど

大きな声の隅でかき消された声を拾い上げ改善できることが

成熟した国家のできることだと私は思う。

 

今回、感染症防止のために在宅勤務が勧められても

ハンコのために外に出なければならないとか

そういう俄かに信じがたいような理由でも

馬鹿げた理由に従わなければならないという

日本の私よりももっと上の先人達が

新しい変化をずっとせずにしてきた怠慢を

コロナ禍によって目の当たりにしている。

 

信じられないくらい、日本のやり方は遅れている。

その現実を目の当たりにした。

この現実は上っ面の綺麗事の希望ではなく、

現実で使える希望を秘めていると私は感じる。

 

先人が変化に対応せずにただ上からきたものを

こなしてきただけのツケは

私のような30代やもっと若い世代の人たちが声をあげたり

実際に新しい価値観で生活することによって

その古臭いツケを払っていくことができる。

みんなが現実に目が覚めた大きなきっかけになった。

それも今回の騒動に大きな声があげられた要因だと思う。

 

ツイッターを見ているとテレビの情報がいかに遅れているかわかる。

そしてツイッターですらもう遅いと感じる人がでてきている。

恐ろしいほどスピードを増している。

 

どこか他人事のように思っていた社会や政治。

自分たちがコロナという存在によって生活に危機が訪れ

そして政治がうまく救えない、立ち回れないことにより

国民は現実を目の当たりにすることができた。

政治のおかしいこと、

自分が自分の生活にできること、

声をあげること。

他を責めてばかりでもない

選択のひとつひとつが意味をなしていく。

 

音楽を描く人々は、この先何を見つめ、何を描いていくのだろうか。

社会に知らんぷり、人の心に知らんぷりして

自分を守るだけの希望の歌は、通用しなくなりそうだ。

自分の保身や、会社の保身をするために

思ったことを言えないような場所に身をおいてはいけない。

私自身はそうしたくないと思っている。

黙っているのが利口というのは、通用しない時代になる気がしている。

人は心があるのだから、何も考えていないことはない。

それを保身や怯えで隠さずに、怖くても少しずつ表明していくこと

みんながそういうラインに立っているように感じる。