新曲を弾き語る「道」公開です。

今年入って春前くらいに作った曲です。

19時には明日から発売される新しい試みの発表をここでします!

 

「道」 作詞作曲 シギ

 

ずっとひとりきりで生きてきた

誰かに甘えるのが苦手で

ひとりで頑張るほうが楽と

僕は僕と生きてきた

 

恋人の胸で眠る時も

僕はいつも未来を見ていた

誰かに幸せにされるより

自分で掴みとりたかった

 

ちゃんとできない 自分を責めて不安をかき消した

強がらなくちゃ 弱音を吐けば 倒れてしまいそうで

 

もうだめだと思うことなんて何度でもあった

そんな日を何度も 乗り越えて

ここまで生きてきた うまくなんてやれないけど

それでも生きてきたんだ 遥か道は続いている

 

ふとしたときに思い出すんだ

昔あった嫌だったことを

ふとしたときに不安になるんだ

先のことを考えると

 

過去や未来を生きることなど

できやしないってわかってるだろう

今この時に集中するんだ

今やれることだけやればいい

 

怖いと思えば 思うほどに もっと怖くなって

うまくやらなきゃ そう思うほど 踏み出せなくなるから

 

どうか心の中の僕よ 許してほしい

今までずいぶん苦しめてきたこと

辛くても頑張れと まだやれるはずだと言って

気づかずに自分を追い詰めてた

 

失敗したっていいさ うまくやれなくたっていいさ

またやり直せばいいさ 何度だって

この先もつまづくだろう 何もできないときもあるさ

それでも生きていこう いつか笑い話にしよう

誰かのためにという傲慢さ。

坂本龍一さんがある記事の中で

音楽の力について話していたのが私はずっと引っかかっていた。

音楽の力という言葉は傲慢だ、というような話だった。

 

私は半分でそれを理解しながらも

もう半分ではそれに少し抗いたい気持ちもあった。

 

けれどここ最近、すごくそれが腑に落ちた。

 

私があまり好ましく思わない男性として(いきなりこんな話ですまん)

「心配してくる人」というのがある。

私が実際にめちゃくちゃ落ち込んでて(お財布落としたとか)

それで心配してもらえるのは良いのだ。それはありがたい。

 

しかし私はいたって元気にやっているのに

「大変なんじゃないの」「不安になってるんじゃないの」「辛いんじゃないの」

という色眼鏡で見てくる場合がある。

そして「センシティブなシギはかわいそうで俺が守ってやらなきゃ…」と

いう図式にされ物語化される事が度々あった。

 

私はそういう男性に寄り添ってもらうのが好きではないので

内心で(同情するなら金をくれとはこの事だなふふ)と思っていた。

心配されるというのは、

心配している本人にはそのつもりがないかもしれないけれど

人をかわいそうな目で見ているということだ。

もちろん本当に不憫な状況を見た場合、人がそう思うのは自然なことだ。

けれど決してそういう状況にない人を

想像の中でかわいそうな人間に仕立て上げるというのは

なかなか失礼な話なのである。

想像して見てほしい。

あなたが元気に気持ちよく過ごしているのに

かわいそうな目で見られるということを。

もはや「かわいそうであってほしい」と願われているのだ。

 

それは自分が優位にたちたいという心理状況なのかもしれないし

守りたいという欲求を持て余しているのかもしれない。

しかしその勝手に作った物語を押し付けられる方はたまったものではない。

 

私はそういう過去の出来事を眺めていて

はたと気がついた。

これ、実は私もしているんじゃないの?と。(気がついた時にはぞっとした。)

 

私はよく、不安をもっている状況にある人のためになりたい(癒しとか勇気とかのわかりやすい言葉にはしていないけれど)

というような言葉を言っていることがあった。

これは自分の音楽の役割であり大切な部分だと思っていた。

 

けれど。

私はそのことについて振り返った時、ごく自然にこう思った。

「いや別にそんなのよくね?」と。(思った時のまんまの表現)

不安になる時なんて、普通に生きてりゃあるわ。

別に他人がわざわざそれに手をつっこんでハッピーにさせたいとか

慰めてやりたいとか

ひとつの人格を持ってる人間に対して

全く赤の他人である自分が偉そうに何かを変えてやりたいと(言い方はもっと優しい言い方だけどね)

思ってることそれ自体が傲慢だな!

と、私は自分に思った。

 

別に不安でいいじゃん。不安になるわそりゃ楽しい時だってあるんだし。

その人のその時の状況や感覚を尊重しようや。

脳みそに手を突っ込んで音楽でなんとかしてやりたいなんて

おこがましいにもほどがあるわ!(もう一人の私「ひえええええお許しをおおお」)

→というわけで、冒頭の坂本龍一さんの言葉が心底理解できた。

 

昔、私がすごく悩んでた時に友達にそれを話したら

私の悩み事を笑い話にしてきた。めちゃくちゃ軽やかだった。

当時、死にそうなくらい悩んでたのに

「なにそれうけるんだけど!ネタじゃん!」と言われた。

(これは人によるだろうけれど)私の心には響いたし勇気になった。

自分が悩んでることってそんなに笑われるくらい大したことないのか

深刻に捉えなくていいのか、確かにそうだよなと思って気持ちが軽くなった。

あとはその友人が、そんな事であんた終わるような人間じゃないっしょと

私のことを見てくれてる気がして嬉しかった。

弱ってる私の心の奥にある強さみたいなものを信頼してくれてる気がした。

 

シリアスに、真剣に話を聞いてくれたりアドバイスしてくれるのもありがたいけど

それよりも「大丈夫だって」という一言が私の救いになった。

なんの解決策にもならない言葉だけど

私の心は軽くなって問題に対して前向きになれた。

人が人にできることってそれだけで、むしろそれだけがいいのかもしれない。

 

他人を心配して、あれやこれやと口や手を出すことは

その人の強さを信じていないからかもしれない。

それか自分がそうすることで自分を満たしているのかもしれない。

 

もちろん人間社会や、それに限らず環境や動物の問題は沢山あって

具体的に沢山の人の手による解決が必要な場合もある。

自殺やいじめ、女性の権利やそれだけじゃなく男性の生きづらさも

そういう問題は知っていきたいし、声をあげたいと思っている。

生きづらさを少しでも解いて自分がしたい事ができる社会になるために

そういう行動はしていきたい。

 

 

私をかわいそうな人に見立てて心配することで気持ちを満たす人がいて

それって失礼だよなと腹がたったことで

私自身もそういう人の強さを見ないで

お節介にコントロールしようとしてた部分もあるなと気がついた。

 

不安を解消し前を向くための音楽。

それは一見聞こえが良いけれど、そんなのは聴いてくれる人の心が決めることだ。

やる側が言うことではない。

不安を癒してあげる、勇気づけてあげる。

そういう「〜してあげる」という言葉は

自分がしてあげないと、あなたはだめでしょって言われてるみたい。

そんな事ないのにね。

そんな事言われてたら「私は弱いんだ、だめなんだ」って

思い込んじゃうよね。

むしろ不安でいたって全然よくて

不安から立ち直りたいと思った人が何かを摂取して

不安から解消されたなら、それが自然なこと。

それでいい。

 

他人がとやかく他人に何かをしたいと思うことそれ自体が

少し歪んだ欲求なのかもしれない。

その歪んだものが人間らしくて好きだったりもするんだけど。

そういうのも人間だと思うから、攻撃する意図はなくて、

単純に私はそのモードからは一旦離れてみようと思った。

自分が音楽や活動を考える時に

めちゃくちゃ人の心について考えたり思ったりしてきたけど

これから先はもっと自分自身の喜びに目を向けようと。

もしかしたらその方が誰かにとって良い作用になるかもしれない。

「はからずも」

それくらいが今の私にとってはスマートで自由だなって。

 

そう思った。

私は、私が美しいと思うもの、惹かれるものを形にしていく。

それを見た人が、勇気が出たよとか、癒されたよと言ってもらえるのは

とっても幸せなことで、ありがたいこと。

それが自然なあり方。

 

 

不安に寄り添ったり楽にしたいというのは

子供の頃や、大人になってもうだつのあがらなかった時の自分を

救いたい、という気持ちが最初だった。

人のためではなく、あの頃の自分のためにやっていた。

 

でも、もういいよな。

私は今を生きて、過去に戻ることはないから。

私が今をやりきる事が、過去の自分の成仏になる。

人の心がどうたらに固執していた自分を手放すことは

私にとってめちゃくちゃ自分の根幹を手放すことに近い。

私はそういう役割だと自分で思ってやってきていたから。

でも私の本質的な部分て、多分そういう所じゃない。

もっともっと、どうしたって変わらない所にあるものだ。

音楽それ自体は、本質的な部分は変わらないし

私がセンシティブなものや退廃的な恋愛の世界観が好きなのも変わらないから

聴いてる人からしたらあまり差はでないかもしれない。

ここにもそういう世界観の詩は書き続けると思うし。

作り出す本人のマインド、

音楽や人との向き合い方が大きく変わったというだけで。

 

ただの自分が自分の心で想像する

きっと美しくなるだろう

きっと楽しくなるだろうことを、どんどん形にしていこう。

本当はそれくらい軽やかで良いものだった。

好きな世界観を変わらず言葉にしていこう。誰のためでもなく。

自分と、自分の好きな世界観をもっと切り離してみて

私は私のままで自由にものを作り上げていこうと思った。

 

そう思うようになったら、不思議とやりたい事とか

新しく始めてみたいことがわんさか出てきた。

まるで自分の心が「待ってました!これもあれもやりたかったんだよー!」と

喜んで言ってるみたい。

 

つまり世界の美しさの全て

雨が降る前の香りのよう

目が覚めた明け方の空のよう

深く沈む海の暗さのよう

夜更けの車道の静けさのよう

つまり世界の美しさの全て

口元の鮮やかな血液の色

見開く瞳孔の色

濡れた髪が憂鬱そうな横顔

熱のこもったような低い声

君の夢から醒めたくはないよ

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だんまりをやめた世界

 

香港の若者達を筆頭にした政治運動も

グレタさんをはじめとする環境運動も

きっとこの先、若い人たちの行動はもっと活発になるだろう。

そして日本はどこかそれを他人の出来事として見ていたけれど

おそらく日本でも同じような流れになる事を感じている。

数日の検察庁定年に対する反対派の多さを見てもそう感じた。

 

ツイッターに少し書いたけれど

検察庁の定年に関しては、公務員の定年の延長という声もわかるけれど

ここまで反対されるのには政権側を不信に思う人が多いからだと感じる。

私自身は、少し前に森友学園の問題で財務局の方が自殺したことに関して

政権側が「残念だが調査には問題がない」というコメントを出したことに

とても悲しくなった。

人が亡くなったという事実に対して

なぜこんなにも淡々と言えるのだろうと違和感に思った。

 

死んでも仕方がない命というのはあるのだろうか。

命を無くしたものが弱かったのだろうか、甘かったのだろうか。

どんな事柄に対しても心や命が粗末に扱われる事に関しては疑問を持つ。

そこだけは軽視してはいけないと感じる。

この事に関して右派も左派も支持政党も関係ない。

思想は行き過ぎると人を盲目にさせる。

右派も左派も過激になり自分の思想を盲信すると

命よりも思いを優先するようになる。

私は三島由紀夫の「生命尊重ばかりで魂は死んでも良いのか」

という言葉がとても好きだけれど

生命と魂はバランスに気をつけなければいけない。

魂ばかりが尊重されて

命が軽視されてはいけない。

 

私は政権側の血の通わない言葉に胸を痛めたが、

コロナの事に関しては精神論や美しい言葉が目立った。

この事にも若干の疑問を抱いた。

確かに乗りこえる努力をするのは国民がすることだ。

けれどこんなにも生活の不安が拭えない人たちを目にする。

生活の不安は置いといて努力をまず先頭に置いたとして

努力をしている最中に死んだのなら名誉ある死なのだろうか。

仕方のない死なのだろうか。

自殺するものが弱かったのだろうか。敗者なのだろうか。

 

 

実践の伴わない綺麗な言葉には注意する必要がある。

それは政治だけではない。本でもそうだ。音楽でもそうだ。

綺麗な、もっともらしい言葉で煙に巻かれてしまう人も多い。

自分の頭で考えるんだ。

自分の心で感じるんだ。

違和感に思ったことは、それはあなたにとっての真実だ。

けれど感情の勢いが出すぎたものには一定の距離感も必要だ。

どんなに正しいと思えるような声があがったとしても

だんだんと暴力的なものもその声の中に含まれていく。

人間は自分が正しいと信じた時に一番暴力的になりやすい。

正しさの主張とストレス発散を混合させている人もいる。

そして結局、同じ穴のむじなになる人たちは多い。

だから私は、違和感に思うことやおかしいことは口にしながらも

自分の醜さや愚かさについても同じように感じる事をわすれない。

自分の良心を暴走させてはいけないから。

 

人の良心はつい、他人を誘導させようとしてしまうものだ。

私も良い思いをしたし、きっとあなたも良い思いをするはずだと。

それは宗教の勧誘でもそうだろう。

自分が良いと思うものをみんなも信じてやれば良くなると

人は信じたいものだ。

けれどそれが行き過ぎると暴力になる。

頷かないものは敵とみなし

声をあげないものは賛同とみなす。

民主主義というのは多数決ではあるけれど

大きな声の隅でかき消された声を拾い上げ改善できることが

成熟した国家のできることだと私は思う。

 

今回、感染症防止のために在宅勤務が勧められても

ハンコのために外に出なければならないとか

そういう俄かに信じがたいような理由でも

馬鹿げた理由に従わなければならないという

日本の私よりももっと上の先人達が

新しい変化をずっとせずにしてきた怠慢を

コロナ禍によって目の当たりにしている。

 

信じられないくらい、日本のやり方は遅れている。

その現実を目の当たりにした。

この現実は上っ面の綺麗事の希望ではなく、

現実で使える希望を秘めていると私は感じる。

 

先人が変化に対応せずにただ上からきたものを

こなしてきただけのツケは

私のような30代やもっと若い世代の人たちが声をあげたり

実際に新しい価値観で生活することによって

その古臭いツケを払っていくことができる。

みんなが現実に目が覚めた大きなきっかけになった。

それも今回の騒動に大きな声があげられた要因だと思う。

 

ツイッターを見ているとテレビの情報がいかに遅れているかわかる。

そしてツイッターですらもう遅いと感じる人がでてきている。

恐ろしいほどスピードを増している。

 

どこか他人事のように思っていた社会や政治。

自分たちがコロナという存在によって生活に危機が訪れ

そして政治がうまく救えない、立ち回れないことにより

国民は現実を目の当たりにすることができた。

政治のおかしいこと、

自分が自分の生活にできること、

声をあげること。

他を責めてばかりでもない

選択のひとつひとつが意味をなしていく。

 

音楽を描く人々は、この先何を見つめ、何を描いていくのだろうか。

社会に知らんぷり、人の心に知らんぷりして

自分を守るだけの希望の歌は、通用しなくなりそうだ。

自分の保身や、会社の保身をするために

思ったことを言えないような場所に身をおいてはいけない。

私自身はそうしたくないと思っている。

黙っているのが利口というのは、通用しない時代になる気がしている。

人は心があるのだから、何も考えていないことはない。

それを保身や怯えで隠さずに、怖くても少しずつ表明していくこと

みんながそういうラインに立っているように感じる。

 

希望を歌わない歌手

彼の歌には希望がない

希望のない歌だから安心できるのである

希望のない時にこそ希望を求めるのが人ならば

人間は希望を浴びた瞬間というのはあるだろうか

いつまでたっても現れない神を逆恨みするようなものだ

 

保護中: 心を整えると生きることが楽になる。

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保護中: 自由とは自らの意思で選べること

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